~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

3.不思議な祠

丘を降りたジルは、再び薄暗い森に分け入ったが、太い樹木が切れ目なく生え、辺りの様相はいよいよ不気味さを増していくばかり。
果てがないのでは……と心細くなり始めた頃、ようやく前方が明るくなって来た。

「あ、出口かも!」
勇んで駆けて行った先には、たくさんの花が咲き乱れる、美しい草原が広がっていた。
「わあ、綺麗ー! お師匠様のお山のお花畑と、どっちが綺麗かな」
しばらくの間、自分が置かれた状況も忘れ、うっとりと景色を眺めていたジルは、やがて奇妙なことに気づいた。
空間を埋め尽くすように咲いている花は、形や大きさは様々なのに、すべてが白色だったのだ。
まるで、この世界には、この色以外の花は存在しないかのように。

「……ホントーに全部白よね、ここの花。他の色はないの? どうしてかしら……」
額に手をかざして、散々周囲を見渡し、彼女が首をかしげたときだった。
「おや、こんなところに人族の娘っ子がおるぞい」
風に揺らぐ花々の間から、不意に小人が顔を出した。

顔や長いあごひげはもちろん、来ている服や帽子、靴に至るまで、すべて緑色尽くしの老人……その身長は、猫魔のカッツと同じくらいか、少し低いようだった。
「あ、あなた、誰?」
ジルが栗色の眼を見張ると、最初の小人の横にもう一人、そっくりな小人がひょいと飛び出て来た。
「ヒトに名前を尋ねるのなら、名乗るのが先じゃわいな、お若いの」

「あ、そうね。あたしはジル、迷子になっちゃったの。
でも、カッツの他にも生き残ったヒトがいたのね」
少しかがみ込んで、ジルは答えた。
「ワシの名はハロートじゃぞい」
「ワシはマロートじゃわい」
緑小人達はそう自己紹介し、老人とは思えぬ敏捷びんしょうさで、代わる代わるトンボを切った。

「わ、上手~。ハロートに、マロートね、よろしく~!」
ジルは喜んで拍手をした。
だが、小人達は楽しそうではなく、顔を見合わせ、それから言った。
「カッツ……とは、あの白い猫魔のことであろ?」
「ふむふむ、あやつには気をつけたがよいぞ、娘っ子。あれの後ろには、不気味なもんがおるでな」
「まさかぁ。わざわざお家に連れてってくれて、ごちそうしてくれたのよ、彼」
すると合図でもしたかのように、小人達は同時に腕組みをし、そろって首をかしげた。

「……ふむ。そこがやっかいなところじゃて。ヤツ自身は、人畜無害なのじゃがの」
「魔物にも種々おるのじゃわい、用心に越したことはあるまいが?」
ハロートとマロートは口々に言う。
「そう……なの?」
ジルは首をかしげた。
「うむ。年寄りの言うことは、心に留めて置いて損はないぞ、人族の娘っ子」
ハロートが、重々しくうなずく。

「分かった、覚えておくね。それよりあなた達、この森の出口知らない?」
「いんや、散々探したんじゃが、どうしたって見つからんわい」
マロートが首を横に振り、ハロートが口を添える。
「その代わりと言っちゃなんじゃが、不思議なほこらを見つけたぞい」
「えっ、不思議な祠? 何、それ。どこにあるの?」

ジルが尋ねた途端、すさまじい風が、突如三人に襲いかかった。
「ひゃあああっ!」
「な、何じゃあっ!」
人間より遥かに軽い小人達は、ひとたまりもなく巻き上げられてしまう。
「きゃあ、マロート! ハロート!」
捕まえようとするジルの手をすり抜け、二人はそのまま運び去られてゆく。
「祠に行きたくば、今来た道を戻れ……」
「目立たない枝道があるぞい……」
「マロート! ハロート!」
緑色の小さな姿はすぐに見えなくなり、いくら呼びかけても、もはや応えはなかった。

「……大丈夫かしら、あの二人。
でも、どこまで飛ばされたか分かんないし、探しようがないわね……。仕方ない、祠に行ってみよう。
けど、途中に枝道なんてあったっけ。よっぽど目立たない道なのね、きっと……」
ジルは言われた通り、戻り始めた。

辺りは、やはり少しも変わらず、薄気味の悪い森が続く。
それでも、いくらも行かないうちに、さっきは気づかなかった、細いわき道を、彼女は見つけた。
そこを入ってしばらく行くと、綺麗な小川のそばに問題の祠はあった。

「ああ、これね。でも、祠って言うより、洞窟どうくつみたい……だけど」
ぽかりと口を開けたその暗い入り口を、ジルはこわごわ、くぐり抜けた。
内部には壁一面に、淡い光を発する月と星の浮き彫りがずらりと並んでいる。
「ふ、ふーん……。たしかに、何て言うか……神秘的な感じ? がするかも……」

レリーフから発せられるかすかな光には、不思議な効果があるようだった。
歩を進めるごとに、少女の心と体は、どこか懐かしく、また切ない……一種いわく言いがたい感じで覆われていくのだ。

その感覚は 置き忘れてきた何かを思い出させると共に、母親の胎内にいるかような安らぎを与え、場合によっては、内部にいる者は胎児のように体を丸めて、眠り込んでしまったかもしれない。
だが、今はもう身も心もすこやかなジルには、その誘惑もさほど強くは感じられず、しかも少し進んだ<だけで、壁が崩れて行き止まりになってしまっていた。

「……あ、あれ? もっと続いていそうなのに。残念ねー。
──ん、何かしら、これ?」
崩れた土の中で、何かがきらりと光を反射している。
掘り出してみると、金属製のコップだった。最近のものなのか、まったく錆びてはいない。
「ちょうどいいわ。これで水を汲んで……あ、沸かして飲まなきゃいけないのよね」

カッツの忠告を思い出したジルは、祠を出ると小川のそばまで戻り、火をく準備を始めた。
拾い集めた小枝に向かい、いつものように呪文を唱える。
「──イグニス!
……あれ?」
人界では一度も失敗したことのない、初歩中の初歩の呪文なのに、なぜか火は点かなかった。

「変ね……。いいわ、もう一度。
──イグニス!」
首をかしげながら再び唱えた途端、大音響と共に焚火が爆発した。
「きゃああっっ!」
コップや火のついた枝が辺りに四散し、ジルは悲鳴を上げて飛びのく。

「ケホ、ケホ。ひどいなあ、もう……」
咳き込みながらジルは、少し焦げてしまった服や髪を、ぱたぱたとはたいた。
至近距離で爆発が起きたというのに、さほど火傷を負わなかったのは不幸中の幸いだった。
「でも、どうしちゃったのかしら、一体?
あ、ひょっとしてこの森じゃ、魔法もちゃんとは使えないのかも?
困ったなあ……」

それでも喉の渇きに負けて、彼女は再び試してみることにした。
もう一度枝を集め、今度こそ慎重に、呪文を唱えようと息を吸い込んだ。
「イグ……」
そのとき、またもや大きな爆発音が(とどろ)き、地面が激しく揺れて、少女は勢いよく尻もちをついた。
「──って、あたしまだ、唱え終わってないわよ──っ!」
彼女は面食らって叫ぶ。

だが、爆発したのは、まったく別の場所だった。
遥か遠くに、もうもうと黒い煙が上がっているのが見える。
「……行かなくちゃ。あそこに」
なぜか、行かなければならないと強く感じたジルは、何かに引き寄せられるように駆け出していた。

──その、少し前。
ジルを見送った後、マキをせっせと運んでいたカッツが、一息ついて額の汗をぬぐったときだった。
突然、家の前庭に、黒い影が湧いて出たのだ。

「…………!」
声もなく後ずさる、小さな白い猫魔の目前で、影はゆらゆらと形をなしていき、やがて巨大な肉食獣、黒豹の姿となる。
『このおしゃべり猫め』
ネコ科の野獣は、喉の奥でうなるように言った。
魔物の少年は悲鳴を飲み込み、か細い声で答えた。
「お、おしゃべりだって……ぼ、僕は何も、余計なことは言わなかった……ぞ」

すると夜色の豹は舌なめずりし、哀れな獲物の恐怖心をあおるのを楽しむように、ゆっくりとカッツの周囲を巡り始めた。
その眼が怪しく輝き、重々しい声が響く。
『だが、おぬしは”忘却の泉”のことを教えたであろう。
さらに、水は沸かして飲むよう、助言までも与えたな』
その口中は鮮血のように紅く、言葉を発するたび鋭く牙が光り、猫眼の少年を震え上がらせた。

「だ、だ、だって、あんた、話しかけてこの家に連れて来いって、い、言ったじゃないか……!
ね、寝られたりしたら、僕の力じゃ、丘の上まで、連れて、こ、来られないもの……」
『ほほう、猫の分際で、我に口答えするか。
──コンヴァージョン!』
獣は後ろ足で立ち上がり、再びゆらりと揺らいで、今度は人間めいた形を取る。

変身を終えると、男はフードを払いのけた。
闇色の髪は短く、奇妙にねじくれた細く黒い角が二本、頭頂部から生えて、土気色の顔には、表情というものがまったく欠落している。
それは、眼が、ぽっかり開いた洞窟の暗闇のような、空虚さを宿しているためだった。

気配は、豹でいたときよりさらに邪悪さを増し、男のすべてが闇に閉ざされているように感じられて、カッツのうなじの毛は自然と逆立っていく。

「ふん、おぬしには、もはや用はない」
闇の魔法使いが指を鳴らした刹那、空に稲妻がひらめき、大音響を立てて、巨大な雷が猫魔の家を襲った。
先ほどジルが見たのは、この落雷だったのだ。

「何をするんだ!」
家と一緒に吹き飛ばされたカッツは、本物の猫さながらの見事な宙返りで、難を逃れた。
「ふん、元々あの家は、あの小娘をおびき寄せるためだけにくれてやったものだ。
役目が終われば無に帰して当然。むろん、おぬしもな」
黒衣の男は、唇の端を吊り上げ、不気味な笑いを浮かべる。
「だ、だましたなっ!」
かっとなったカッツは、両手の爪をき出し、可愛い外見に似合わない凶暴さで、魔法使いに
飛びかかっていった。