~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

2.迷いの森

「あー、よく寝たー」
可愛らしい小鳥の声が聞こえて来た気がして、栗毛の少女は目覚め、大きく伸びをした。
「え? ど、どこなの、ここ……?」
その栗色の眼に飛び込んで来たのは、見たこともない風景だった。
「な、何であたし、こんなトコにいるの? ……あれ? 何だか、体も痛いけど……」

焦ってあちこち触ってみたが、痛みは単に、硬い地面に直接寝ていたせいと見えて、どこにもケガは負っていない。
ほっとして少女は立ち上がり、周囲を見回した。

そこは深い森の中だった。
彼女が住む山の森とはまったく異なり、高い木々に覆われ、背を伸ばしてみても空は見えず、薄暗かった。
先ほど自分を起こした、小鳥のものらしいさえずりも今は途絶え、周囲は、しんと静まり返っている。

少女の名はジル・アラディア。
つい先日、十六歳の誕生日を迎えたばかりの見習い魔法使いで、四年前、病で死にかけていたところをサマエルに救われ、弟子となっていたのだったが。

「お師匠様! イナンナ! プロケルさん! ついでにタナトス──!」
“お師匠様! イナンナ! プロケルさん! タナトスってば──!”
思いつく限りの名前を、出せる限りの大声と思念とで叫んでみても返事はなく、こだまが不気味に感じられて、ジルは身震いした。
かなり遠くまで来てしまったのだと直感したものの、その理由は見当もつかない。
途方に暮れながらも、彼女は懸命に記憶をたどり、手がかりを探そうとした。

(ええと昨夜は……お師匠様にお休みのあいさつをして、ベッドに入って……それから……?
駄目だわ、すぐに眠っちゃったのね、その後のことは覚えてないわ、全然。
……どうしよう。
と、とにかく、少し歩いてみよう、かな。ここにいても、しょうがないもの)

意を決し、ジルは歩き始めた。
進むうちに、段々と木々がまばらになり、明るくなって来る。
やがて水の流れる音が聴こえてきて、さっと目の前が開けた。
深い森の中にぽっかりと、樹木が生えていない広い空間が出来ていたのだ。
空き地の向こう、巨大な岩の裂け目から、こんこんと水が湧き出し、小さなせせらぎとなって流れていた。

「あ、水だわ、よかったー!」
喉の渇きを覚えていたジルは、歓声を上げて泉に駆け寄り、両手で水をすくって飲もうとした。
その時。
「駄目だ、それを飲んではいけない!」
突然聞こえた鋭い叫びにびくりとし、せっかく汲んだ水を、彼女はすべてこぼしてしまった。

「だ、誰!?」
慌てて見回すと、すぐそばの茂みから、大きな白い猫が顔を出していた。
「ね、猫がしゃべった!?」
彼女は眼を丸くした。
「……猫ですって? せっかく助けてあげたのに、失礼な人間ですねぇ」
むっとしたように答え、白猫は茂みから這い出て来た。

相手の全身を眼にしたジルは、すぐに自分の勘違いに気づいた。
「あ、ご免なさい。その綺麗な眼のせいで、間違えちゃったの。あなたは魔族ね」
立ち上がった魔物は、明るいところで猫のように虹彩こうさいが細長くなる、琥珀色の瞳を持っていたのだ。
サマエルの監視役として魔界から派遣されている、氷剣公爵プロケルの眼とそれは酷似していて、おそらくは同族なのだろうと思われた。

「……ま、いいでしょう。人族は、僕らのことをよく知らないようですからね。
僕は猫魔びょうま一族のカッツと申します。あなたもこの森に迷い込んだのですか?」
胸に手を当てて尋ねる魔物の背は、少女よりも低く、声も幼かった。
それでも、言葉遣いや顔立ちは気品があり、服もかなり上質のものだった……少々くたびれて来てはいたが。

「ええ、そうよ。あたしはジル。
でも、どうして、この水飲んじゃいけないの? とても綺麗じゃない」
ジルは、泉を指差す。
するとカッツは、彼女の後方に向かってゆっくりと手を動かした。
「ああなりたいですか、あなたも?」

「え? 何かあるの?」
少女は振り向き、首をかしげた。
猫魔は、じれったそうに伸びをして、草むらを指差す。
「よくご覧下さい──ほら、そこですよ」

「白い物が落ちてるわね……何かな」
懸命に眼をらしていたジルは、はっと息を呑んだ。
下草に覆われていたせいもあり、猫魔に言われるまではまったく気づかなかったが、大小様々の骨が、泉の周囲に散乱していたのだ。
「あ……あれって、まさか、骨……人間の!?」

「ええ。人間の、魔物の……他にも色々。見たこともないほど大きいものまでありますけどね」
カッツは平然と答え、両手で大きく弧を描いて見せた。
「えっ、じゃあ、この水、毒なのね!?」
ジルはあわてて手を振り回し、しずくを切った。

猫魔は、否定の身振りをした。
「いえ、毒ではありませんが……どうやら、以前文献で読んだことがある、『忘却ぼうきゃくの泉』と言うものらしいですね。
これを飲むと、自分の名前はもちろん、どこから来たかとかもすべて忘れてしまうんです。
そして眠りに落ち……その途端──こうなる、という寸法ですね」
カッツは、重ねて白骨を指差した。

少女の脳裏に、四年前の悪夢がよみがえる。
あの流行病では、ばたばたと人が死んでいった。
彼女の家では真っ先に父親が倒れ、村を捨て逃げる途中、妹、弟、ジルの順に病におかされ、母も死んだ。
彼女の知っていた人々は、ほぼ全員が死んでしまったのだ。
埋葬する者もなく腐り果て、骨と化していく死体を、逃避行中にも彼女はたくさん見た。
今、目の前に広がっている光景のように……。

ジルは青ざめて唇を震わせ、それでも気丈に礼を述べた。
「あ、ありがとう、教えてくれて。あたし、も少しで死んじゃうトコだったのね……」
「大丈夫ですか? 顔色がよくありませんよ。まさか、水が口に入ったんじゃないでしょうね」
心配そうに、猫魔は彼女の顔を覗き込む。

「ううん、ちょっと驚いただけよ……」
ジルは首を振って悪夢を振り払い、尋ねた。
「そうだ、カッツ、キミはこの森に住んでるんでしょう?
あたしの家はワルプルギス山にあるんだけど、どうやって帰ればいいか、道を教えて。
こんなところ、早く出たいわ」

すると、猫魔の琥珀色の眼に、微妙な陰が差した。
「詳しい話は、後にしませんか。僕の家で、お茶を飲みながらでも?」
「でも……あ」
ためらうジルの腹が、そのとき、ぐうと大きく鳴り、彼女は頬を赤らめた。
「やだ、恥ずかしい。
でも、朝ご飯まだだったのよね……って言っても、こんなところじゃ……」

「では決まりですね。さあ、参りましょう、こちらです」
彼女の同意も待たずに、カッツはさっと歩き出す。
「あ、待って!」
ジルは小走りに後を追い、尋ねた。
「ね、家って、遠いの?」
「いえ、すぐそこです……ほら、もう見えてきましたよ」
「あ、あれね?」
彼の華奢きゃしゃな手の示すところ、少し小高くなった丘の上に、家が見えた。

しかし、そこに到着するまでは、意外に長くかかった。
空気が薄いのか、それとも重力が人界とは異なっているのか、体がひどく重く感じられるのだ。
それが彼女の気のせいではない証拠に、先を行く猫魔も、重たげに歩を進めている。

「……ふう、はぁ、……ここ、がキミの、家……ちっちゃい、のね」
ようやく丘の上にたどりついたときには、ジルの呼吸は相当荒くなっていた。
「え……ええ、僕の、サイズに、合わせてます、から。
よいっしょ、さあ、どうぞ。……あ、頭に気をつけて、下さいね」
こちらもまた、肩で息をしているカッツは、体重をかけて小さな木の扉を開け、少女を先に通した。

「お、お邪魔します……」
腰をかがめて、ジルは恐る恐る猫魔の家に入っていった。
「あ、なんか、可愛い!」
意外に中は広く、天井も高かったので圧迫感はなく、彼女は思わず歓声を上げていた。
彼が言った通り、椅子、テーブル、ベッド、食器棚、窓の高さに至るまで、皆、標準サイズよりも一回り小さく、可愛らしかったのだ。

「気に入って頂けてうれしいです。そこにおかけ下さい。
そうそう、お腹が空いていらしたのですよね」
家に入った途端、カッツは元気になり、湯気を立てるマフィンとクッキーが乗った皿と、ポットとカップとを、手際よくテーブルの上に並べていった。

「さあ、どうぞ」
「頂きます。わ、おいしーい!」
一口食べて、ジルは眼を輝かせた。
「こんな美味しいマフィン食べたの、初めて!」
「そうですか、僕が焼いたのです。おほめにあずかり光栄ですよ。クッキーもいかがですか?」
「これもすっごく美味しいわ。カッツって、お菓子作りの名人ね、尊敬しちゃう!」
彼女に絶賛されたカッツは、猫に似た眼を細めた。

「ありがとうございます。僕、パティシェになるのが夢なんです。
たくさんありますから、どんどんお召し上がり下さい」
空腹の時には、どんなものでも美味に感じられるものだが、さすが菓子職人を目指す猫魔の力作は、また格別だった。
思いの外たくさん食べ、ようやく人心地ついたところで、ジルはカッツに今までのいきさつを話した。

「それでね、みんな心配してると思うから、早く帰りたいの。帰り道を教えて」
「帰り道、ですか……」
猫魔は眼を伏せた。
嫌な予感が、ジルの心を走り抜ける。
「……まさか、キミも知らない、なんてことないわよね?」

「そのまさかです……残念ながら。
僕も帰りたくて、何度もこの森を出ようとしましたが、同じところをぐるぐる回っているみたいで、どうやっても出られないんです……」
「え、そんなぁ……」

「もうどれくらい前になるか分かりませんが、あなたと同じように、僕も眼が覚めたら、同族達と一緒にここに来ていました。
そして、皆は、あの水を飲んで眠り込んでしまい……。
一人で出口を探しているうちに、川を見つけたので、水をかして飲んでみました。
そうしたら大丈夫でしたが、こんな森が本当にあるなんて……どうしていいのだか……」
話すうち、カッツは徐々にうなだれていき、しまいには完全にうつむいてしまった。

「分かるわ、独りぼっちで淋しかったでしょう?」
ジルは、心から猫魔に同情した。
「ええ、とっても不安で、心細くて……」
カッツは、もぐもぐと答えた。
「そうよね……でも……う~ん……困ったわ、どうしよう……」
彼女は少し考えた。

少し経ってから、彼女は吹っ切るように顔を上げた。
「いいわ、とにかくあたしも一度、自分で出口を探してみる。
カッツ、マフィンとクッキー、ごちそうさま」
「も、もう行かれるんですか?
ご、ご一緒したいんですが、僕は……その、ちょっと用事がありまして……でも、もし見つかったら、ぜひ僕にも教えて下さいね」

妙にうろたえ口ごもる、猫魔の態度を不審にも思わず、ジルは答えた。「うん、もちろんよ、絶対一緒に帰りましょう。じゃあね、カッツ」
「ありがとうございます」
猫魔は頭を下げた。
その琥珀色の眼は、うるんでいるように見える。

それから再びドアを開け、カッツは家のドアのところで、彼女を見送った。
「もし見つからなくても、お腹が空いたら、いつでもいらして下さい。
そうだ、少し行くと川がありますから、それを目印にされるといいでしょう。
沸かして飲めば、そこの水は安全ですよ」
「分かったわ、ありがとう!」
ジルは手を振り、元気よく歩き出した。