~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

1.失踪(1)


「き、貴様、ふざけるな!
ジルがいなくなってしまいました、それも、拉致らちされた疑いが濃厚です、だとぉ!?
しかもだ、そんな一大事を、涼しい顔でほざきおって!!」

所狭しと並べられた魔法書や呪文書等、奇妙な魔法アイテムが、揺れるシルエットとなって、ロウソクの灯りに浮かび上がっている。
不気味な雰囲気が漂う地下の一室で、二人の人物が対峙たいじしていた。

冷たく整った顔を紅潮させ、噛みつきそうな勢いで詰め寄っているのは、一目で人外の者と分かる男だった。
冷酷な光を帯びた両眼は緋色、烏の濡れ羽色をした髪の間からは、琥珀(こはく)色をした長い角が、二本も突き出している。
そして、漆黒のローブに身を包み、フードを深々とかぶったまま、魔界の男に締め上げられているのは、数日前、地下室で水晶球を覗き込んでいた男だった。

「タナ、トス、落ち着け……」
「黙れ、サマエル! これが、落ち着いて、いられるか!
俺は、貴様が、憎い、憎くて、たまらん!」
魔界の男は、一語一語発するたびに、黒衣の男を激しく揺さぶる。
「前々から、気に食わん、ヤツだとは、思っていたが、今日ほど、憎いと、思った、ことは、ないぞっ!」

その振動で魔法使いの黒いフードが後ろに落ち、白銀の髪がサアッと広がった。
あらわになった顔を見比べると、角の数と位置こそ違え、二人はそろって紅い眼をし、顔もどことなく似通っていた。
それもそのはず、彼らは実の兄弟で、しかも父親は魔界をべる王……つまり、魔界の王子達なのだった。

しかし、多少なりとも似ているのは容貌ようぼうだけで、髪色が表すように、性格は天と地ほどにも異なっている。
この兄と、また父親とも折り合いが悪かった黒衣の男……サマエルは、ある事件をきっかけに、魔界を追放同然に飛び出していた。
そして兄とは違い、額にある一本角や翼をも封印し、フードで紅い眼を隠してまで、ここ人界で静かに暮らしてきた。

一年ほど前、退屈を持て余し人界にやって来たタナトスは、サマエルの弟子であるジルに一目ぼれし、魔界に連れ去ろうとした。
しかしサマエルはジルに、ひとかたならぬ想いを抱いていたし、彼女もまた、人界で彼の弟子として暮らすことを望んだ。
要するに、振られてしまったわけだが、タナトスはりずに、彼女を妻にする機会をうかがっていた。

そう言う経緯があった上、今回の失踪事件により、元々あまり仲がよくない兄弟間の溝が深まるのは、必至ひっしと思われた。
「く、弁解の、余地はない……」
サマエルの声が苦しげなのは、呼吸ができないせいだけではなかったのだ。

しばらくその格好のまま、徐々に鬱血うっけつしていく恋敵の顔を睨みつけていたタナトスは、やがて弟の体を乱暴に突き放し、髪をかきむしった。
「やめたやめた! 今、貴様を殺せば、ジルを探す手立てが減ってしまう!
ああ、ジル……。俺がそばにいれば、こんなことには……!」

すると、喉を押さえ、咳き込みながらサマエルが言った。
「そ、れは……ゴホッ、どうかな……ゴホ……」
タナトスは、カッと眼を見開いた。
「なんだと、それはどういう意味だ!?」

「水晶球に集中するために……一時的とは言え、結界から意識を逸らしたのは、たしかに私のミスだ……。だが、無防備だったわけでは、ない。
結界は、解除されては……いなかったし、何より、この……この私の、屋敷の二階だったのだぞ、彼女がいたのは……!」
サマエルの声に、わずかに口惜しさがにじむ。
「自慢ではないが、私の魔力はお前と同等……いや、上を行く。
そばにいたのがお前でも、おそらく同じことが起きただろう」

それを聞いた魔界の第一王子の心に、再び怒りが込み上げ、彼は拳を突き上げた。
「黙れ、つい今し方、弁解の余地はないと、ほざいたばかりではないか!
言い訳など聞く耳持たんわ!
大体だな、俺が腹が立って仕方ないのは、貴様をある意味で信用していたからだ!
潜在している彼女の力は強大だ、闇夜の灯りも同然に、強い魔力を持つ者どもをきつけてしまうことくらい、ジルの師匠を名乗る貴様なら分かっていたはずだぞ!
だが、ここにおれば、貴様とて“カオスの貴公子”……魔界王家の血を引く者だ、ジルを狙う害虫どもから、俺と同程度には守ることができようと思い、それゆえ涙を飲んで、魔界に帰っていたのだ!
それを、貴様は、貴様は……!」

タナトスは、さらに何か叫びかけたが思いとどまり、椅子にどさりと座り込んだ。
「……ふう。とにかく、今はそんなことを言っている場合ではない。
ジルは無事なのか、今、どこにいるのか、それを知るのが先決だ」
「その通り」
兄が落ち着くのを待っていたサマエルは、平然とローブのほこりを払いながら立ち上がる。

滅多に感情を面に出さない、人形のように整った弟の顔を、タナトスは忌々いまいましげに見据えた。
「ふん、居所は、すでに分かっていると言いたげな顔つきだな」
サマエルは、見る者に、(なまめ)かしい感じさえ与える仕草で乱れた髪を整え、うなずいた。
「ああ。目星はついていると言ってもいい」

「何だと、それを早く言え! 教えろ、どこだ! すぐに俺が行ってやる!」
「お前では駄目だ、私が行くさ」
再びつかみかかろうとする兄を、サマエルは今度は、さらりとかわす。
「何いっ! “俺の”ジルを守れもしなかったヤツに任せることなぞ、出来るか!」
タナトスがまたも吼えた瞬間、サマエルはすいと兄に近寄り、怒りに燃え上がっている紅い眼を覗き込んだ。

「……たしかに。
だが、それだからこそ、私が行くのだ。これは、私への挑戦でもあるのだからな。
目の前で弟子をさらわれて──指をくわえて黙って見ていろと言うのか?」
いつもは温和なサマエルの声に、氷のごとく冷たいものが混じり込む。
鋭い光を帯びて細められてゆく紅い瞳に、闇の炎までが灯るのを見たタナトスの背筋に、悪寒が走った。
未だかつて、こういう表情をするときの弟以上に脅威を感じさせる存在に、彼は出会ったことはなかったのだ。

だが、その危険な光は一瞬で消えた。
感情を爆発させてしまったことに少し照れたようにフードをかぶり直すと、サマエルの声は何事もなかったように、再び穏やかなものとなる。
「それに、場所はまだ特定できていないのだ。無論、彼女の無事は確実だが」
「場所が分からんだと? さっきは目星がついていると言ったではないか、いい加減な!」
顔をしかめ、タナトスは腕組みをした。