~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

エピローグ/形見

「行って来ま~す、お師匠様!」
元気よく、ジルは師匠に手を振った。
「ああ、行っておいで。
プロケル、二人を頼んだぞ」
「──は。お任せ下さい、サマエル様」
サマエルに向けて、魔界公爵はうやうやしく頭を下げる。

「野イチゴも摘んで来るわ、ジャム作るの! ねー、イナンナ」
「ええ、たくさん作りましょうね。
では、行って参ります、サマエル様」
ジルの従姉、イナンナも彼に会釈する。
「楽しみにしているよ、気をつけて」
「はーい!」

授業に身が入りそうもない、眠気を誘う昼下がり、サマエルは、弟子達を花摘みに送り出した。
もちろん、天界の来襲に備え、ワルプルギス山全体を強力な結界ですっぽり覆って、万全を期した上でのことだった。

静まり返った屋敷に、独り残ったサマエルは、その足でまっすぐ自室に向かい、机の引き出しからある物を取り出して、じっくりと眺めた。
それは、精緻せいちな模様が彫り込まれた、大きな黒檀こくたんの宝石箱で、母が人界から嫁入り道具として持って来た物の一つだった。
死の間際……母アイシスは、これを生まれたばかりのサマエルにのこしたのだ。
(小さい頃はよくこれを、“パンドラの箱”に見立てて遊んだものだったな、独りで。
……最後に希望が残るところ、それが私を()きつけてやまなかったのだ……)

「──カンジュア!」
呪文を唱え、小さな金の鍵を呼び出して、ふたを開ける。
もちろん、伝説に出て来る災厄などは、中から飛び出して来たりはしなかった。
それどころか、紺のビロードで内張りされた木箱は空っぽで、ただ、ごくかすかに……おそらくは母が使っていたと思われる香水の残り香が、ふわりと鼻孔をかすめるばかり。

開けるたびに薄らいでいき、鋭敏な魔族の嗅覚でなければ嗅ぎ取れなくなってしまったその香りを、(いと)おしむようにそっと吸い込みながら、サマエルは、蓋裏にはめ込まれた鏡に映る、母に生き写しと言われる自分の顔を凝視した。

(『いつか、この子には、これが必要となるでしょう』……それが母の遺言……。
母には、何が見えていたのだろう……。
私が、魔界王となり、この宝石箱が、貢物みつぎものの中から選び抜かれた最高級の宝石ばかりで、埋め尽くされるところ……だろうか?
あいにくと、母上、私は不肖ふしょうの息子ですよ。次期の魔界王となるのは、兄、タナトスです。
……でも、それなら、母上だけは、この私に、王になってもらいたいと思っていて下さったのですか?
もし、そうなら……どんなに私は、救われることか……)

サマエルは、重い吐息をつき、再び鍵を閉めて形見を引き出しにしまった。

The End.