~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

7.希望の光(2)

イシュタルは、お気に入りの方の甥に、つやっぽい笑みを向けた。
「ね、サマエル、まだ気づかない? この少女こそが、お前の希望なのよ。
今はまだ、ちゃんと制御出来ていないけれど、そのうち、成長して、お前の闇の力を完全に抑えてくれるようになるに違いないわ、本当によかったわね……!」

「えっ、で、ですが、私は、“カオスの貴公子”ですし……。
そうでなくとも、人族の女性を受け入れるわけには……」
サマエルは、困惑しきった表情をし、タナトスはいきり立って、弟に指を突きつけた。
「叔母上、何を言うのだ!
こんな気違いのお守りをするより、魔界の王妃となり、強い能力を持つ子供を俺達にもたらす“魔族の母”となる方が、よほど有意義だろうが!」

イシュタルは、(かぶり)を振り、匂い立つような色っぽい仕草で、銀の絹糸のような髪をかき上げた。
「お前、そんな風に考えているのなら、この娘に振られて当然ね」
「何だと、なぜだ」
「それが分からないうちは、女性の心を射止めるなんて、土台、無理な相談よ……あら、サマエル、お前、ずいぶん疲れているようね。
わたしの精気を分けてあげるわ」

言うなり、イシュタルは甥の、すんなりとしたあごに手を掛け、その唇に自分の口をあてがった。
サマエルは、まったく嫌がるそぶりも見せずにそれを受け、白い喉がコクコクと鳴る。
やがて、腕が持ち上がり、叔母の長い髪に触れ、うなじを滑るように移動したあげく背中に回り、ついには、その柔らかな体を抱き寄せ始めた。

このまま行けばどういう状況になるか、一早く察したタナトスは、眉をしかめて弟と叔母を引き離そうとした。
「貴様、いつまで飲んでいるつもりだ!
まったく、俺がくれてやったときには、礼の一言もなかったくせに!
叔母上も、早くこいつから離れてくれ!」

“私に触れるな!”
叔母と唇を合わせたまま、サマエルは、肩をつかむ兄の手を邪険に振り払った。
“なぜ、礼など言う必要がある。
大体、無理に、お前の精気など飲まされたのが発端で、この事態を招いたのだぞ!
せっかく、こうして口直ししているのに、忌々しいことを思い出させるな、また気が変になってしまう!”

「……くっ!」
タナトスは歯ぎしりをした。
抱き合ったままでイシュタルも、彼を(にら)む真似をした。
“サマエルとは、千年振りに会ったのよ、いいでしょう、あいさつくらい”
「む、夢魔流のあいさつなら、時と場所を選んでくれ! ジルが目を覚ましたら、どうする気だ!」
タナトスは顔を紅潮させ、吼えた。
“その子は、明日まで目覚めないわよ”

「叔母上!」
タナトスは地団太(じだんだ)を踏んだ。
“……もう、無粋ぶすいねぇ。はいはい、分かったわ。今は、お前の顔を立ててあげる”
あきれたようにイシュタルは念話を返し、ようやく唇を離す。
サマエルもまた、渋々叔母の体に回した腕を外して先に立ち上がると、優雅に手を差し出した。
「どうぞ、叔母上」

「あら、ありがとう」
彼の手を借りて起き上がったイシュタルは、にっこりした。
「本当に、ここはいい具合に暗いわね……また来ようかしら、サマエル。
今度は、あいさつも二人っきりでゆっくりと、ね」
「そうですね。叔母上なら、何時いらして下さっても歓迎致しますよ」
サマエルも、極上の笑みを返す。
「……ちっ!」
タナトスは、忌々しげにそっぽを向いた。

「あら、いてるの、タナトス? 本当に子供みたいだわね、いつまで経っても」
「だ、誰が妬いてなど!」
「もういいから、お黙りなさい。お前には、魔界に帰ってから、あ・げ・る。
さ、彼女を連れて、上に戻りましょ」
むきになるタナトスの唇に、白い指をあてがって黙らせ、艶然えんぜんと微笑みながら、イシュタルは甥達を促した。

次の日、弱り切っていたものの、ジルは、イシュタルの言葉通り目を覚まし、皆を安堵させた。

数週間が過ぎ、ジルがすっかり回復すると、父王の再三の呼び出しにも応じず人界に居残っていたタナトスも、さすがに魔界へ帰らなければならなくなった。
「いいか、貴様。イシュタル叔母はああ言ったが、三年経つまでは決して手を出すなよ、もし出したら、容赦はせんからな!」
彼は、弟に指を突きつけ、脅すように宣言した。

サマエルは、淋しげに微笑み、頭を振った。
「その心配はないよ。叔母上は、私を牽制けんせいする意味で仰ったのだろうから」
「ふん! 飢え、しかも狂っている夢魔に、理性など期待できるか!
俺の精気が嫌だとほざくなら、人界にいる魔族の女を適当に見つくろい、エサにすればいのだ!
ミカエル程度でへばっていたら、いざと言うときジルを護れんぞ!」

「たしかにね。彼女は覚醒かくせいしつつある。
その潜在的なパワーに釣られて、寄ってくる悪しき者達から彼女を護るためにも、精気を吸わねばならない、か……。
これまでにも、どうしても我慢出来ないときに、ほんの一口、精気をもらっていた女性がいないわけではないが……」
第二王子は、まるでそれが悪いことでもあるかのように眼を伏せた。

第一王子は、不思議そうな顔になった。
「貴様はなぜ、食事を嫌がるのだ? どんな生き物でも、何か食わねば生きられん。
俺達はそのかてを女の精気に求めている、それだけのことだ。
人族や神族は常に、動植物を殺して食らっているのだぞ、めったに命を奪わんだけ、俺達魔族は、マシではないのか?」

(ほう……この男の口から、こんな台詞を聞くとはな。
まともに脳みそが働いているときも、たまにはあると見える)
珍しく論理的に話す兄を見つめ、サマエルは冷ややかに思った。
「……何だ?」
不審そうに、タナトスは弟を見た。

「いや、そう言うことではないのだ」
サマエルは、かすかに首を左右に振った。
「……?」
タナトスは眉を寄せた。
「女神マトゥタのことさ。まだ少し、心に引っかかっているものだから」
サマエルは、かつて自分が死に追いやってしまった、天界の女性を思い起こして言った。
そのせいで、彼は追放同然に魔界を出る羽目となり、先日も、ミカエルに、(かたき)呼ばわり
されたのだ。

「マトゥタ……ああ、貴様に堕落させられたあれか。うまくやったものだな、まったく。
俺も機会があったら、天界の女の二、三匹も食らってみたいものだ……。
それはそうと、あの女に、魔族と神族の混血児でも産ませてみたら面白かったろうにな。
三界すべてをべる王になれたかもしれんぞ、そのガキは」
タナトスは、にやりとした。

サマエルは、輝かしい銀の髪に手をやり、ため息をついた。
「……お前とは一生、話が噛み合いそうもないという気がして来たよ」
「どうしてだ。妻をめとるのは、強い子供を産ませるためだろう。
強者に蹂躙じゅうりんされたくなくば、おのれも強くあらねばならん。
そうせねば、魔界は天界に勝てんのだ!」

大げさに手を振る兄王子の仕草に、弟王子は肩をすくめた。
「それは、陛下の受け売りだな。
嫌だ嫌だとだだをこねている割には、思想も行動も魔界の考えにどっぷり漬かり、
逸脱いつだつすることができない……哀れなことだ」

「何だとぉ、生まれついての負け犬のくせに!
生まれ損ないの化け物め、取り替え子め!
貴様の親など、あの変態天使、ミカエルあたりで十分だ!」

兄にののしられた瞬間、サマエルの唇には反射的に笑みが浮かんだ。
しかし、その眼は、まったく笑ってはいなかった。
「……魔界の第一王子、タナトス殿下」
穏やかと呼べるほどの口調で弟王子が切り出すと、周囲の空気が一挙に冷たく凍りつく。

(く、くそっ…!
俺ともあろう者が、なぜこんな軟弱者に、こうも気圧(けお)されねばならんのだ……!)
タナトスは歯噛みしたものの、弟の体から放たれる何かに圧倒されてしまい、それ以上続けることは、どうしても出来ない。

「……たしかに、弱者は強者に力では対抗出来ないかも知れません。
ですが、弱者をないがしろにすると痛い目を見るということを、もう、お忘れになったのですか? 
相変わらず物覚えのお悪いことだ。
さ、陛下がお待ち兼ねのはず、さっさとご自分のお城にお帰りになられたらいかがです。
次期の魔界王陛下?」
唇に氷の微笑を張り付かせたまま、弟は慇懃無礼いんぎんぶれいに言い捨てて地上に戻る魔法陣に入り、憮然ぶぜんとした表情で、兄は魔界に帰る魔法陣に乗った。

こうして、サマエルの心と屋敷とに、ようやく平穏な日々が戻って来たが、それが長くは続かないことに、心のどこかで彼は気づいていた。