7.希望の光(1)
「ジル……! どうやってここに来たのだ、まだ回復し切っていないはずだぞ!」タナトスは叫び、驚きのあまりサマエルも、一時的に完全な正気を取り戻した。
「地下の結界は解除していたが。
そんなに息を切らして。ここまで走ってきたのだね? 本調子でないのに無茶をして……」
「ああ、この
まあ、なんてすごい力! お前達が欲しがる気持ちが分かるわね……!」
眼を見張るイシュタルに負けず劣らず、ジルも、年上の美しい女性の存在に驚いていた。
「あ、あなたは、誰、ですか?」
「わたしはイシュタル。この二人の叔母に当たる者よ、サマエルに呼ばれて来たの。
この子は正気を失いかけて、もう、生きていきたくないと言うの……。
このままでは、“死の使い”となって、世界を滅亡させてしまう、だから……だから、殺して欲しいと……」
イシュタルの、金の粒を散りばめた瞳に涙が盛り上がり、弓を持つ手が激しく震えた。
「ええっ!?」
少女は顔色を変え、空中に浮かぶ師匠に駆け寄った。
「嫌、お師匠様、死んじゃ嫌よ、そこから降りて来て!
約束したじゃない、あたしを置いていかないって、あたしより先に死んだりしないって……!」
サマエルは、否定の身振りをし、弟子の少女に手を差し伸べた。
「ジル、この姿をよくご覧、醜いだろう……?
放っておけば、ますます醜くなるのだよ、私の心の通りにね……。
これ以上一緒にいれば、キミを汚し、そのことで一層気が狂い、やがて世界をも食いつくし……滅ぼしてしまう……そんなバケモノなのだ、私は……」
「醜くなんかないし、お師匠様が死ぬんなら、あたしも死ぬわ!
三年前、お師匠様に助けられなかったら、死んでたんだから……ね? いいでしょ、あたしも一緒に……」
「いかんっ!」
タナトスは吼え、弟に向けて指を振り立てた。
「このたわけ者は勝手にすればいいが、どうしてキミまで
「タナトス、彼女をここから連れ出してくれ。叔母上、その間に頼みます……」
「お師匠様、駄目よ、そんなの! 生きて! 死んじゃ嫌!」
「さ、ジル、行こう。もうこんなヤツにかまうな。
こいつは、大した努力もせずに人生とやらに絶望し、生きているのが嫌だとかほざいているのだ。
そんなヤツには、生きている資格などない。希望通り、楽にしてやればいいのだ」
タナトスは冷たく言い捨て、震えている少女の細い肩に優しく手を置き、連れて行こうとした。
「嫌よっ、放して──!!」
「うわっ!」
悲鳴のような絶叫と共に、一週間前と同様ジルの体が激しく輝き、タナトスを弾き飛ばした。
そのまま、彼女は宙に浮き上がり、両腕を広げてサマエルに近づく。
「お師匠様!」
“ジル、来てはいけない……!”
サマエルは逃れようとしたが、追いすがる少女のスピードは予想外に速かった。
勢いよく二人が触れ合った刹那、少女の白く清らかな気が爆発的に膨張して、“カオスの貴公子”の黒く禍々しい気を包み込み、周囲を
「
「く、何も見えん……!」
イシュタルとタナトスは、思わず眼を覆う。
清浄な光と、鍾乳洞全体を揺るがす鳴動がようやく収まった後には、鍾乳石がなぎ倒されて平らになった広大な床と、その中央部に、放心状態で座り込む魔界の第二王子、そして隣に倒れている少女の姿があった。
「し、信じられない。すべて消滅したわ、あれだけの闇のパワーが……一瞬で……」
つぶやいた途端、イシュタルは、ジルの危機に気づいた。
「あ、いけない! 早く、タナトス、魔力を彼女に! まだ間に合うはずよ!
──オルゴン!」
「──オルゴン!」
ぐったりとなったジルに向け、二人は魔力を注ぎ込む。
「ジル、しっかりしてくれ! 魔界の女神アナテよ、この少女にご加護を!」
駆け寄り、少女を抱き起こしたタナトスの体は、わなわなと震えていた。
王子の必死の祈りは女神に届いたと見えて、蒼白な顔に徐々に血の気が戻っていき、少女は息を吹き返した。
「……う……」
「ジル、ジル、頼む、眼を開けてくれ!」
イシュタルも急いでそばへ行き、甥をなだめた。
「タナトス、そんなに揺らさないで。
危ないところだったけれど、もう大丈夫、安定しているわ。
後は、自然に眼が覚めるまで、寝かせてあげておけばいいのよ」
「そうか、よかった……」
タナトスは心から安堵し、表情も和らいだ。
(まあ、この子でも、こんな顔をすることが出来るのねぇ、意外だわ……)
この甥が、これほど
しかし、それも一瞬のことで、虚ろな眼をしてうずくまる弟の姿に眼を留めたタナトスの顔は、再びこわばってしまう。
「ジルを頼む、叔母上」
「ええ。あ、タナトス、何を……!」
彼は最愛の少女を叔母に預けると、弟につかみかかった。
「大たわけ! 危うくジルが死んでしまうところだったぞ、この
貴様の存在自体がうっとうしい、さっさとくたばってしまえ!」
「……あ?」
手荒く揺さぶられ、怒鳴りつけられて、サマエルは声がする方に顔は向けたが、目の焦点は合っていない。
「くっ、何をボケている、死ねと言っているのが分からんのか、このたわけ者!」
「……うん、そう、だね、にいさま」
ぼんやりとうなずいたサマエルの顔に、激しいタナトスの平手が飛んだ。「兄などと呼ぶな、汚らわしい! この気違いめ、目を覚ませ!」
「何をするの、タナトス!」
イシュタルが驚き、叫ぶ。
「いい加減に正気に戻らんか、この軟弱者めが!」
「おやめなさい!」
「叔母上は黙っていてくれ!」
彼女の静止も聞かず、タナトスはさらに二、三発、弟の頬を張った。
「こいつは逃げているだけだ、何かと言うとすぐ、狂気という名の
そら、貴様、とっとと正気に戻り、自分の仕出かした事を見てみろ!」
「……う、う……や、やめろ、タナトス!」
正気を取り戻したサマエルは、兄の手を振り払った。
紅くなった頬を押さえてタナトスを睨みつけ、それから、叔母に向かって頭を下げた。
「叔母上、やはり、私はもう駄目です……何かあるたびこんな風に、おかしくなってしまうのでは……。
改めてお願い出来ますか。今ならジルに、死ぬところを、見せないで済みますから……。
記憶を消すとは言え、いっときでも辛い思いはさせたくないので……」
痛ましげに、イシュタルは首を横に振った。
「何を言うの、サマエル。希望を捨てては駄目。
大体、記憶操作なんて、強い意志の持ち主に対しては、うまくいかないものよ。
潜在意識が拒否するのね。ほら、ご覧なさい、彼女の手を……」
「ジル……?」
そばに横たわる少女を見て、サマエルは戸惑った。
ジルは彼の銀髪の端を、死んでも離すまいとして、握り締めたまま気を失っていたのだ。
(ジル……。私には分からないよ。
命を助けられたというだけで、どうしてキミは、私のような者をここまで慕うのか……?)
サマエルは、震える手でそっと少女の涙をぬぐう。
タナトスは、
「……なぜだ、ジル。こんなカスのようなヤツのことを、どうして、それほど慕うのだ?」
魔族の兄弟の思いは、意外なほど一致していた。