~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

6.紅龍の呪縛(4)

「タナトスね、待っていたわ」
「何だって?」
意外にも、叔母がすぐドアを開け、そう言ったので彼は面食らった。

青金石せいきんせきのように、あいの中に金を散らした摩訶まか不思議な瞳と、魔界王家ゆかりの銀髪を持つ叔母、イシュタル。
彼女は、魔界王ベルゼブルの腹違いの妹に当たる。
自分とさほど年の離れていない、この美貌の叔母が、正直なところ 彼は苦手だったが、今はそれどころではなかった。

「な、何でもいい、一刻を争うのだ、とにかく俺と一緒に来てくれ!」
「ええ、サマエルに関係があるのね?」
「どうして知っているのだ、さっきから」
「夢を見たのよ。予知夢だったのね、やはり。さ、急ぎましょう」
「ああ、行くぞ、
──ムーヴ!」
二人は、即座に移動して魔法陣に駆け込み、人界への道をたどった。

ようやくサマエルの屋敷に着き、地下に降り立った瞬間、彼らの全身の毛は一斉に逆立った。
先ほどタナトスが感じたものより数段おぞましい、邪悪そのものと言っていいほどの妖気が、鍾乳洞全体を覆い尽くしていたのだ。
「まあ……何なの、これは……。気味が悪い。寒気がするわ……」
「く……。さっきよりも、一段とたちが悪いぞ……」

二人の脳に押し込まれてくる、名状めいじょうしがたいものの意識。
周囲の闇に潜むそれは、一つや二つではなく、しかもはっきりと敵意をはらみ、彼ら侵入者を憎しみを込めて睨みつけ、隙あらば取り込もうと狙っている。
それら得体の知れないもの達が、今にも飛びかかって来そうな恐怖心と戦いながら、二人は、先ほどタナトスが往復した道を、燭台しょくだいの灯りだけを頼りに、ぎこちなく進まなければならなかった。

「サマエルは、正気を無くしかけているのね?」
それでも、出来る限り急ぎながら、ぽつりとイシュタルが訊いた。
「ああ。『サマエルが叔母上を必要としています』、そう言えば叔母上が飛んでくるだろうと……」
おいの言葉に藍色の瞳が揺れ、長いまつ毛に半ば隠される。
(可哀想なサマエル。でも、お前一人でかせはしないから……)

「叔母上、それは……」
イシュタルが取り出したものを眼にして、タナトスは息を呑んだ。
「そう……。これが、“紅龍”を殺せる、唯一の……」
彼女が手にしていたのは、見事な作りの弓と、美しく輝く矢だった。
すべてが純金で出来ており、鋭く光る先端から矢じりに至るまで、びっしりと魔界の古代文字が彫り込まれている。

「魔界を出て千年……少しは、幸せになれたかしらと思っていたのに……。
一体、何があったの、タナトス。
感情をほとんど面に出さない、あの子の怒りや悲しみを、こんなに強く感じたのは、“カオスの力”を得るための試練の時以来よ……」
「……む。親父から、今回のことは聞いていないのか?」
「ジルとか言う、お前がご執心しゅうしんの娘のことは知っているわ。まさかお前、その子に……」
「い、いや、俺とて、そこまでちてはおらん、ミカエルのたわけめが、横合いから出張って来おって、ジルを奪おうとしたのだ……」

さらに先を急ぎながら、タナトスは、その時のことをかいつまんで叔母に説明した。
「……お馬鹿な天使もさることながら、お前の行動にも、かなり問題があるわね」
「ふん、夢魔にとってはあんなもの、単なるあいさつだ、いちいち目くじら立てられてはかなわんな」
「それは、対等な立場での話でしょう。
おまけに酔いつぶしたあげく同意も得ず……では、魔界でも問題ありと見なされるわよ。
まったく、お前は……!」

「ちっ、叔母上はいつもそうだ、サマエルにばかり、甘いのだからな!」
「当たり前でしょう!
わたしだけでも味方になってあげなかったら、あの子は、“カオスの貴公子”の称号を受ける前に、死んでしまっていたわ!
やはり、あの時……何としても、兄上をお止めすべきだったのね……」
唇を噛む叔母を見やるタナトスの口調や表情は、父親に似て非情そのものだった。
「いかにも親父のやりそうなことだ。
あやつは、俺達のことなど、虫ケラ同然にしか思っておらんのだからな」

「何を言うの! サマエルはともかく、お前は、可愛がってもらったでしょうに!」
「ちいっ! あんな、棺桶に片足突っ込んだ老いぼれ、親とは思っておらん、さっさと両足突っ込んでしまえばよいのだ!」
「タナトス、口が過ぎるわよ!」

「……ふん。叔母上は親父に、別な意味で可愛がられているから、ひいき目で見てしまうのだろうが、こうして考えてみると、サマエルの気持ちも分からんではないな。
親父のことや、天界のヤツらのことを考えると、こう……ムラムラと、腹の底から怒りが込み上げてくるわ!」
紅い眼を燃え上がらせ、タナトスが拳を固めた時、二人はサマエルのいる場所に出た。

「ああ、サマエル!」
イシュタルはすがるような思いで、甥の名を呼んだ。
だが、闇に閉ざされた空間に浮かび上がる“カオスの貴公子”の顔は冷たく取り澄まし、息をしているとも思えない。

“サマエル、目を覚ませ! イシュタル叔母を連れて来てやったぞ!”
タナトスが心の声で呼びかけると、能面めいた表情がようやく動き、サマエルは、のろのろと眼を開けた。
それでも、瞳には闇が巣食ったままで、まったく生気は感じられない。

「あ、あ……叔母、上、来て、いただいて……」
喉からやっと絞り出しているような声が、イシュタルの胸に突き刺さる。
「駄目よ、サマエル!
憎しみをお忘れなさい、ここは魔界ではないの、お前を封じ込めていた、あの牢獄ろうごくではないのよ!」
「同じ、です、私にとっては……生きていることは、拷問ごうもんに等しい……
もう……こんな苦しみから逃れ、たい……楽にして、下さい、お願いです……。
陛下、も、やっと私を厄介やっかい払いでき、胸を……なで下ろすことでしょうし……」

「そ、そんなことはないわ。異母兄上は、あなたのことを──」
「いいえ、慰めはいりません。分かっていますから」
叔母の言葉をさえぎるときだけ、サマエルの声は多少力強さを取り戻す。
「慰めではないの、本当に兄上は……」
「死に行く身に優しいお心遣い、痛み入ります……ですが、もういいのです……。
それより、私の首と引き換えに、正妃の位をお願いされたら、いかがです……?
いつまでも、日陰の身でおられずに、お幸せに、なって下さい……」

「そんな! 出来るわけがないでしょう、お前の命と、わたしの地位を交換するだなんて……!」
魔界では、母親が違えば、兄弟姉妹間でも結婚が出来る。
半ば狂気に囚われていても、他人を思いやる気持ちを忘れない、第二王子の心根の優しさは、イシュタルの涙を誘った。

「それは無理だろうさ、サマエル。親父は、貴様の生首など見たくもなかろうし。
叔母上も若い身空みそらで、あんな老いぼれの世話をして一生過ごしたくはなかろうし。
大体、親父は、女など、エサとしてしか見てはおらんのだからな」
反対に、第一王子の無神経な言い草は、彼女の神経を逆なでした。

「タナトス、いい加減になさい! 大体お前は昔から……!」
「ふん、うだうだ説教をしている暇があったら、さっさとぶち殺してやったらどうだ、叔母上。
どうせ、こいつは、魂が生き腐れになっているクズだ、今すぐ望み通りにしてやったらいい!
サマエル、ジルのことなら心配いらんぞ。
俺が、天界から必ず守ってやる、ミカエルになど、指一本触れさせはせん!」

タナトスが拳を突き上げると、闇に覆われたサマエルの瞳が、さざなみのように揺らいだ。
「お前ごときに、愛する者を託さざるを得ない、この私の、気持ちを、愚かなお前が理解するときは、決して、来ないの、だろうな……」
「ふっ、悔しさに、舌でも噛み切りたい気分なのだろう?
ふふん、それくらいは、俺でもわかるぞ、残念だったなぁ」

「よしなさい、タナトス!」
「構いませんよ、叔母上、この男に罵倒されるのは、慣れていますから……。
そんなことより、タナトス、魔界に連れて行くときには、ジルの記憶を消すのだぞ……。
両親と村人の死や、私のことも、すべて忘れさせて……お前と、愛し合っている、という記憶と……すり替えればいいのだ……」

「えっ、サマエル、いくら何でも、そんなこと……」
「いいえ、叔母上、こうでもしないと、彼女が、苦しんでしまいますから……」
「むう……」
弟の提案にタナトスは複雑な表情をし、腕組みをして考え込んだ。
少し前の彼なら、手放しで賛成し、さっそく実行に移しただろうが。
「人界での記憶を消してしまえば、魔界での暮らしは楽になる、か。
たしかに、それがジルの心を護る最上の策かも知れんが、記憶のすり替えなど、気乗りはせんな」

タナトスがそう言ったとき、突如、聞こえて来た声に、三人は凍りついた。
「嫌よ、そんなの! あたし、お師匠様のこと、忘れたくないわ!」
息を弾ませた栗毛の少女が、そこにいたのだった。