6.紅龍の呪縛(3)
だが、それから四、五日が過ぎても、サマエルは一向に、地下室から出ようとはしなかった。
その間に、タナトスは、回復したプロケルを魔界へ報告に行かせると同時に、屋敷の周囲に張り巡らせた結界をより強固にし、天界の逆襲に備えた。
合間に何度か、弟の様子も見に行こうとしたものの、侵入者をかたくなに拒む頑強な結界が地下に張られており、それはサマエルの、兄に対する思いを明確に伝えていた。
そのまま、何事もなく一週間、二週間と経っていく。
どうやら天界は、今回は、ジルに手出しすることを、諦めたのだと思われた。
そんな時、ようやくベッドの上に起き上がれるようになったジルが、ぽつりと言った。
「お師匠様、どうしたのかしら……」
「ふん、サマエルか。
地下に、あれだけの結界が張られているのは元気な証拠だ、心配いらんぞ」
「じゃあ、どうして、出て来てくれないの?
ひょっとして……あたしのせいでケガしちゃったから、怒ってるのかな……」
「それはないわ、ジル。あれは、あの天使が勝手にやったことなのだし。
本当に、迷惑な男だったわね」
イナンナが言い、タナトスも深々とうなずいた。
「そうだぞ、キミのせいではない。
巧妙に隠しているから、人族は知らんのだろうが、ミカエルと言うのはな、天使とは名ばかりの、とんでもないヤツなのだ。
連れて行かれなくてよかったな、ジル」
「うん。でも……そんなにひどいヒトなの?」
可愛らしく、ジルは小首をかしげる。
「ああ。よくない噂を、あちこちで耳にするな。
無論、神族と魔族は犬猿の仲だが、それを割り引いても、相当らしいぞ。
キミの前で、口に出来るような話でないと言ったのは、どう考えても、あやつ自身のことだ。
自分がしているから、他人も、とでも考えたのだろうさ。
俺達とて他族のことはとやかく言えんが、生きるために精気を吸っているのだ、無駄に食い散らかすなどもっての外。見境なく女を襲ったりはせん。
それに、よほど飢えてでもおらん限り、相手を死に至らしめることもない……神族ならば話は別だが」
タナトスは、しかめっ面で説明した。
「ふ~ん、そうなの。あたし、魔族のことってよく知らなくて」
「わたしもよ。天使と悪魔って、人界で考えられているのとは、随分違うのね」
ジルとイナンナは口々に言う。
タナトスは肩をすくめた。
「神は善、魔は悪……か? そんなものは、一方的な見方に過ぎん。
命を奪うことを悪とするなら、生き物を殺して食う神族や人族の方が、よほど悪かも知れんぞ。
それはともかく、今回のサマエルの怒りは、どうやら、俺のせいだな。
俺が、ヤツを、本気で怒らせてしまったらしい……」
「あなたが?」
「どうして? またケンカしたの?」
緑と栗色、色は違っていても、清らかな二つの眼差しの攻勢に、魔物の王子は返答に
「う、いや、その……と、とにかく、もう一度試してみるとするか……」
ぼそぼそと言い訳しながら、タナトスは地下の気配を探る。
途端に、彼は明るい顔になった。
「……や? 結界は消えているぞ!」
「えっ、じゃあ、お師匠様は、もう出て来るのかしら?」
ジルも眼を輝かせた。
「まずは俺が様子を見てこよう、待っていてくれ、ジル、イナンナ」
幾分気が軽くなったタナトスは、魔法陣に乗り、さっそく地下室へと向かった。
だが、それは罠だった。
彼が地下に姿を現すや否や、以前に倍する
(……ちっ、ヤツめ、よほど頭に血が上っているとみえる。
この際だからと、俺を、亡き者にする気でいるのかも知れん……)
一瞬、二瞬……身構えるタナトスの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。
一寸先も見えぬ真っ暗闇の中で、どこから襲いかかってくるか分からぬ相手の出方を待つ時間は、ひどく長く感じられ、彼は渇いた喉に何度もつばを飲み込みながら、徐々に高まっていく緊張に耐え続けた。
しかし、かなり時間が経過しても、サマエルが襲いかかって来る様子はない。
周囲を探り、近くには弟の気配がないことを確認すると、とりあえず彼は警戒を解き、灯りをつけてみることにした。
「──イグニス!」
まず、彼の眼に入ったのは、ぎっしりと魔法書が並べられた本棚と、書きかけのノートが広げられた机。
さらには、天井のあちこちからぶら下げられている、魔法の実験に使う怪しげな道具類……それらが、揺らぐロウソクの火に照らし出され、不気味な雰囲気を
二週間前と何ら変わりない光景が、広がっているばかりだった。
そんな中、乱れ、汚れたままのベッドに眼が行った時、突如彼の胸はちくりとした。
(……何だ。何ゆえ、胸が痛んだりするのだ……?
今まで散々、気の
いや、そんなことより、ヤツはどこへ……?)
気を取り直し、弟の姿を求めて周囲を見回していたタナトスは、一方の壁が、大きくえぐれていることに気づいた。
そこには、真の闇が、誘うように口を開けていた……。
「……? この間はなかったぞ、こんな穴は」
かなり夜目が利くタナトスでも、見通せぬほど闇は深く、強力な結界の中にいるせいで、移動魔法も使えない。
彼は
穴をくぐり、灯りを掲げると、無数のつらら上の岩が、天井を覆い尽くしているのが見て取れた。
「ほう……ここは天然の鍾乳洞か。ヤツはこの中に、さ迷い出て行ったとみえる……」
意を決し、魔族の第一王子は歩き始めた。
進むに連れて天井は、かがまなくてはならないほど低くなったり、背丈の二、三倍ほどにも高くなったりした。
床も、
魔族の王子は、時間や距離の観念を失い、無限に続くようにも感じられる真っ暗なトンネルを、何かに導かれるように、ひたすら進んでいった。
どれくらい歩いたのだろう。
今までで一番広く、天井も遥かに高い空間に出た途端、タナトスの背筋に悪寒が走った。
微光を放ち、闇の中に浮かび上がる弟の姿が、眼に飛び込んで来たのだ。
幽鬼のごとく青白い顔は、唇だけが異様に紅く、
めらめらと、全身から
「サ、サマエル、ど、どうした、のだ……?」
気力を振り絞り、タナトスは声をかける。
それに反応し、怪物はカッと眼を開けた。
「き、貴様……!」
彼は息を呑んだ。
ごくまれに、冷たい光を帯びることはあったものの、常に優しい光を
“タナ、トス、なぜだ……”
深く暗い地底から吹き上げる、生臭い風のような声が、タナトスの頭の中で響く。
「サマエル……」
彼は身震いし、弟の名を繰り返すことしか出来なかった。
そんな兄に、サマエルは、のろのろと指を突きつけた。
“何ゆえ、お前は人界に来たのだ……まだ、私を
お前は、私が、持つことが出来なかった、すべてを、持っている……父と、母の温もりでさえも……。
なのに……ジルまでも、奪っていくと言うのか……”
タナトスは、はっとした。
「やはり、貴様、ジルを……?」
“そうだ、愛している……だが、真実、手を出す気はなく……独り立ちさせた後は……再び、眠りにつくつもりだった……。
彼女が訪ねてくれるたび、目を覚まし……旅の土産話でも聞かせてもらい……。
やがて、彼女が……人族の、配偶者を見つけたなら……子供や孫を、あやす楽しみも……あるかも、知れない……と、思って……。
それでも……お前だけなら、まだよかった……。
天使までもが、出て来て……私の、ささやかな希望は、打ち砕かれ、完全に消え失せた……。
ジルが、天界に連れて行かれて……あんな手癖の悪い男が、そばにいたのでは、と思うと……ああ……”
青白い
「落ち着け、興奮するな。“カオスの力”を発動させたら、そのジルも無事では済まんのだぞ!」
タナトスは弟を叱りつけた。
頭を振って正気を取り戻し、サマエルは答えた。
“分かっている……それで、お前を呼んだのだ……私の、最期の望みを……聞いて、くれ……”
「最期の、望みだと? ジルを守れ……とでも?」
“無論……彼女を、天界から守って欲しい……。
だが、その前に、叔母上を、連れて来て欲しいのだ……『サマエルが叔母上を必要としています』、そう言えば、何をさて置いても、いらして下さるだろう……"
「──何!?」
その言葉の意味を、瞬時に把握したタナトスは、眼を見開いた。
弟にとって叔母は、死の使いにも等しいのだから。
“ああ……ジルと、静かに暮らしていられた……ここ三年だけが、唯一、生きていると、感じられた時間だった……。
だが、それも、終わりを告げる……私は、もはや、正気を保てない……”
再び、第二王子は頭を抱え込んだ。
「ええい、どうして、貴様は、そう簡単に諦めるのだ!
俺やミカエルをぶちのめし、魔界と天界、双方を敵に回してでも、ジルを自分のものにする、それくらいの
タナトスは、紅い眼を燃え上がらせ、サマエルを怒鳴りつけた。
彼が、一番嫌なのは、こういうときの弟だったのだ。
“それが出来たら、とっくにそうしている……。
だが、いつ、手を噛むか知れない、狂犬、と共にいては、彼女が不幸になるだけ、だ……。
うう……それでも、お前が余計なことをしなければ、失った分を回復するだけで、何事もなく……元の生活に戻れ、たのに……!
利用するためだけに魔力を戻し……気を失わせたあげく、もてあそんで……!
あああ、憎い、憎くてたまらない!
私という存在を、生み出した、この世界……天界、魔界、人界が!
すべての生命が、憎らしく……
サマエルは、体をのけぞらせた。
小刻みな震えが、いよいよ激しさを増すと共に、すさまじいまでに強力な闇の力が、恐ろしい勢いで体から放射され、竜巻のように渦を巻きながら、タナトスに迫って来る。
「やめろ、サマエル、心を乱すな! すぐに、イシュタル叔母を連れて来てやる!
その後で、うだうだ話を聞いてやるぞ!」
弟の念に追い立てられ、タナトスは、汗だくになって地下室に駆け戻り、息つく間もなく、床の魔法陣に飛び込んだ。
汎魔殿に着くと、すぐさま呪文を唱え、叔母の部屋の前に移動してドアをたたく。
「叔母上! イシュタル叔母上! 開けてくれ! 一大事だ!」