6.紅龍の呪縛(2)
「ジル、済まん、あいつは寝ていた。
かなりよくなっていたが、すっかり回復するまでは、眠って過ごすつもりなのだろう、心配はいらん」
部屋に入るなり、タナトスは少女に告げた。
ジルはわずかにうなずく。
「うん、起こしちゃ、かわいそう……。でも、ホントに大丈夫……?」
「ああ、心配無用だ、あいつは殺しても死なん」
ジルは、ほっと息を吐いた。
「ひどい、言い方、ねぇ。けど……あの時、いったい、何があった、の?」
「覚えていないのか」
「うん……よくは、ね。体が……かあっと熱くなって……その後のことは……分かんないの……」
少女は、かすかに身震いした。
「あの後、キミは、ミカエルを吹き飛ばしてくれたのだ。
そのお陰で、俺達は、こうして無事でいられると言うわけさ」
手を振る仕草で、タナトスは、天使が飛んで行った様子を再現して見せた。
「え……大丈夫かな、天使さん……」
「ふん、あんなヤツの心配などいらん。そう簡単に、くたばるとは思えんからな。
尻尾を巻いて天界へ逃げ込み、今頃は、傷でもなめているのだろうさ」
敵対する相手にさえ示す少女の優しさに、少々あきれたタナトスは、そっけなく言った。
「そう。あ、プロケルさん……は?」
「無論、生きているとも。あいつとて、
ああ見えても、百戦練磨の戦士だからな、数日で元に戻るだろう」
公爵のことに関しては、何も嘘をつく必要がなかったので、タナトスはすらすらと答えた。
「そう……よかった」
少女は、こけた頬にうっすらと微笑を浮かべた。
「ああ、それより、腹は減っておらんか?
俺は、キミやサマエルのように料理は出来んから、魔法で出すが」
イナンナから、目覚めたら空腹でいるだろうから、ジルに食事を出して欲しいと頼まれていたことを思い出し、タナトスは尋ねた。
「うん……少し、空いてる、かも……。イナンナに、頼もうかな、って……思ってた……」
「彼女は、一晩中、キミとプロケルを交互に看てくれていてな。
かなり消耗していたようだったから、さっき、部屋で休むように言ったばかりだ」
「そうだった、の。後で……お礼、言わなくちゃ」
「ああ。さて、期待していてくれよ、特製のを出してやるから」
「うん……どんなのかな、楽しみ」
弱々しいジルの笑みの後押しを受けて、タナトスは懸命に記憶をたどり、幼い頃、自分が熱を出したときに、母が食べさせてくれた
やがて、母の温もりと共に、彼はそれを脳裏にくっきりと思い描くことに成功した。
「よし、──カンジュア!」
唱えると同時に、いい匂いの湯気の立つ、熱い粥が入った皿が出現した。
彼は、それをトレイに乗せ、大事そうにジルの前に置いた。
「そら、出来た。母が昔、作ってくれたのを思い出してみたのだ。うまいぞ」
「ホント、おいしそ……頂きま、す」
助け起こされ、ジルはスプーンを持とうとしたが、手の自由が利かない。
「あ……。力、全然、入らない……」
「そうか。ならば、俺が食べさせてやろう」
タナトスは少女の背中に枕をあてがい、生まれて初めて、病人の口に食事を運んだ。
「……熱そう、ね」
「そ、そうだな、すまん、すぐに冷ましてやる」
慌てて魔界の王子は粥を吹く。
今までの彼しか知らない家臣達が見たら、眼を回しそうな光景だった。
「ありがと、とってもおいしかったわ。……タナトスって、ホントは優しいのね」
胃に少し物が入ると、頬に赤みが差し、元気も出て、ジルの声もよほど力強くなった。
タナトスは柄にもなく、顔が熱くなるのを感じた。
「い、いや、そんなことはない、が、優しいなどと言われたのは、初めてだ……」
「王子様だから、何でもやってもらえるもんね。
でも、やってあげる機会がなかっただけなのよ。タナトスは、本当は、優しくて親切なんだわ」
ジルは、一点の曇りもない笑顔を、夢魔の王子に向けた。
純真な少女の心からの信頼……それを裏切る行為を、自分がしてしまったのだと、タナトスはその時、初めて実感した。
しかし、プライドの高い彼は、それをおくびにも出そうとはしない。
「ふ……ふん、俺は魔物の王になる男だぞ、それが優しかったり親切なわけがなかろう」
「自分じゃ気づいてないのね。
お師匠様のことだって、子供の頃の話でしょ、これから仲良くしていけばいいんじゃない?」
一瞬絶句し、それから渋々といった感じで、彼は言った。
「今となっては、もはや無理……だろうな……。
あいつは、俺を、心の底から憎んでいる……おそらくは、殺したいほどに……。
まあ、俺としても、軟弱なヤツは大嫌いだから、別に構わんが、な」
ジルは、栗色の眼を真ん丸くした。
「えっ、殺したいほど……憎んでる? 兄弟なのに? 何があったの、一体……」
「サマエルから聞いていないのか」
「聞いたのは、仲が悪いってことだけ。お師匠様は、昔のお話はしてくれたことがないの。
教えて、タナトス」
ジルはすがるように言った。
「……昔の話、か」
魔族の王子はためらい、それから、少女の哀願するような表情にほだされて、差し障りない程度になら、教えてやってもよかろうと思った。
「では、少し教えてやるか。
今にして思えば、昔、俺達の仲が悪かったのには、大人の態度が反映されていたのだろう。
ガキの頃のサマエルは、皆に悪しざまに言われてとことん冷遇され、あげく、親父にさえ無視を決め込まれていたからな。
それで俺も……やはりガキだったし、つい便乗して、ヤツをいたぶっていたのさ。
あいつがこんな話を、キミに聞かせないのも無理はあるまい」
ジルは、またも眼を見張った。
「ど、どうして、なぜ、お父さんまでが、お師匠様に冷たくしたの?」
タナトスは肩をすくめた。
「ふん、サマエルだけではないぞ、あの男は、俺達兄弟に対して、父親としての情愛など、
あいつは、女を、食い物……端的に言えば、家畜だとでも思っているのかもな。
それで、おのれと“家畜”との遺伝子が混じり合った“結果”などには、興味も愛着も感じんのだろうさ」
その声は、冷ややかだった。
「そんな……ひどいわ、そんなのって……」
少女の栗色の眼がうるんでいく。
正直に言えば、彼も、後宮の女達に対しては、単なる食事でしかないと感じられてしまうこともままあったのだが、常にではなかった。
彼女達一人一人に個性があると彼は知っており、中には気に入った女性もいた。
それに、父王が王妃……つまり、自分の母親のことをも、同様に思っていると知ったことが、父親との溝を広げる一因ともなっていたのだった。
そのため、彼は、少女にも、胸を張って答えることが出来た。
「無論、俺は女性をそんな風には思っておらんぞ、ジル。サマエルも当然そうだろうが」
「うん、分かってる……」
ジルは眼をこすった。
タナトスは遠い眼になった。
「それでも、母が生きていた頃は、まだよかったのだがな……。
ああ、そうか……。サマエルが、女の精気をほとんど吸わず、角や翼まで封じているのは……魔族ではなく、人族として生まれたかったと言う、強い思いの現われ、なのか……?」
彼のいつもの
話す声も、しまいにささやくようになり、思わずジルは訊いていた。
「……ね、後悔してるの、タナトス?」
魔界の王子は眉を上げた。
「……後悔? なぜ、後悔などせねばならん? 弱い者は
さもなくば、魔族は、とっくに滅びてしまっていたのだぞ」
「で、でも、それじゃ……」
「人界では通用せん、か? だが、魔界ではそれが常識で、俺はこれからもそうするだろう。
今さら、負け犬に同情しても始まるまいしな。
ま、こう言うわけで、サマエルは俺や親父を憎んでいる……と言うより、おのれの体内を流れる魔族の血そのものを、呪っていると言った方がいいかも知れんが。
俺が話してやれるのは、これくらいだ。後は、ヤツに聞くんだな」
彼はそう言って、話を締めくくった。
思ってもみなかった話を聞かされた少女は、眼を伏せ、しばし無言でいた。
「どうした? 疲れたのか?」
「そう、みたい。少し眠ってもいい?」
「もちろんだ。ゆっくり眠るがいい。二、三日もすれば、キミもサマエルも元気になるだろう」
「そう、ね」
「お休み」
ジルの額にキスすると、少女は言った。
「お休みなさい。あ、お師匠様にも、お休みのキスをしてあげてね」
「な、何っ!? いや、その……努力は、してみるが……」
タナトスはそう答えるしかなかった。