6.紅龍の呪縛(1)
屋敷に着いた。
まずはジルとプロケルを寝室に運び、容態を確かめる。幸い、どちらも命に別状はなかった。
安堵したタナトスは、イナンナに二人の看護を頼むと、弱りきった弟を部屋に連れて行った。
「手数を掛けたな、タナトス。私はいいから、ジルの様子を見に行け……」
ぐったりとソファに身を沈め、サマエルは眼をつぶった。
言われるまま部屋を出ようとした兄王子も、やはり気になると見え、肩で息をしている弟の顔を覗き込んだ。
通常、魔族は回復が早く、現に彼の傷はとっくに
弟も当然、そのはずなのだが、天使の魔法によって深くえぐられた傷は、薄い皮膜に覆われただけで、いつ破れるとも知れず、完治には程遠かった。
「おい、ジルのことも心配だが、貴様の方もどうしたと言うのだ?
ほとんど魔力が感じられんのも、どうやらさっきの闘いのせいではないな。
……まさかとは思うが、貴様、女の精気を吸っておらんのではあるまいな?」
すると、サマエルは眼を閉じたまま、答えた。
「それがどうした。
私は人界へ来てから、我慢出来なくなるまでは、草木の精気や、人間の食べ物で過ごしているぞ……」
そう聞いたタナトスの眼が、ありえない現象を見てしまったかのように、大きく見開かれる。
「な、何だとぉ? じょ、冗談も休み休み言え!
俺達インキュバスは、女の精気がなければ、生き長らえることは出来んのだぞ!」
苛立たしげに胸をたたく第一王子に向けて、サマエルは言葉を絞り出す。
「強い力を欲するからだ……。高望みしなければ十分生きられる……この私のように……」
「たわけ! いくら力を抑え、人間の振りをしたところで貴様は魔族だ、“夢魔”なのだぞ!
無駄なことだと、分からんのか!」
タナトスはさらに言い募り、弟に指を突きつける。
「分かっていないのは、お前の方だ。
私は、心静かに暮らしたいから……こうしているだけ、なのだ……。
もういい、独りにしてくれ……」
答えるのに疲れたサマエルは、兄から顔を背けた。
「ちっ、何を訳の分からんことを。だが、無駄話をしている暇はない。
親父には、心話で一報は入れておいた。
それでも、やはり、いったんは魔界に帰り、詳しく報告せねばならん……天界が絡んで来たとなっては、面倒だとも言っておられんからな。
しかしだ、貴様が弱っていては、俺の留守中が心配だ。忌々しいが俺の精気を分けてやる。
いいか、貴様のためではない、あくまでジルのためだ、分かったか。
そら、吸え。それとも、呪文で送り込んでやるか?」
マントの留め金を外しかける兄に、弟王子は、弱々しく首を振って見せた。
「……いらない。行けと言っているだろう。
それに、お前に情けを掛けられるくらいなら……たとえ足りずとも、花の精気でも吸っていた方が遥かにましだ……。
力なら、眠れば多少回復するだろう」
「ちっ、強情なヤツめ。
そんな
言うなり、タナトスは弟を、力任せにソファに押し倒した。
「な、何を、する、は、放、せ……っ!」
もがいた拍子に束ねていたヒモが切れ、サマエルの髪が、銀糸で編んだ繊細なレースのようにソファから広がり落ちる。
「そら見ろ。俺は魔力を使っておらんが、どうあがいても、跳ねのけられまい。
ま、貴様はずっとこんな風に、俺に組み敷かれていればよかったのだ。
ふっ……あのまま魔界に残っていれば、地下牢に封じ込め、毎晩でも可愛がってやれたものを、惜しいことをしたな」
第一王子は、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「く、っ……!」
サマエルの
「ふん、悔しいか。
綺麗事を言うからだ、貴様は
それを、今、思い知らせてやる!」
「よ、よせっ、タナトス……やめ、ろ…!
く、うっ……!」
サマエルは必死にもがくが、首に押し当てられた手を通じ、次代の魔界王の強力な魔力が、すさまじい勢いで注ぎ込まれて来る。
立ち枯れかけた植物に突然与えられた水のごとく、膨大な魔力が飢え切った細胞の隅々へと浸透していくに従い、サマエルはそれに溺れ、意識は遠のいていった。
「どうだ、俺の精気は。最高級の酒のように、身体を芯からとろけさすだろう。
……ん? いきなり多量に与えすぎて、酔い潰れたか?
ふっ、今夜は、久しぶりに楽しめそうだな。
どれ……邪魔が入らんところで、ゆっくりと料理してやるとしよう」
夢魔の王子は再びにやりとし、意識不明に陥った弟を抱き上げ、地下室へと向かった。
ジルのことは、今この時は、彼の念頭から、完全に消え去っていた。
翌日。
(……あれ? あたし……)
ジルが気づくと、自分のベッドの中だった。
辺りは、すっかり明るくなっている。
起き上がろうとしたが、体中の力を残らず
息をするだけで、疲れてしまうのだった。
(ど、どうなってるの、これ……?)
焦っていたとき、ドアがそっとノックされ、魔族の王子の顔が覗いた。
「眼が覚めたか、ジル。具合はどうだ?」
「あ、タナ、トス……なんか、だるくて、起きられない、の……どう、しちゃったの、かな」
「無理をしてはいかんぞ、あまりしゃべるな。念話も使っては駄目だ。
もう少しで、キミは、死ぬところだったのだから」
真剣な顔で、タナトスは言う。
「ええ……っ?」
ジルは栗色の眼を見開いた。
「魔力は精神の力だ。生命エネルギーの一種といってもいい。
一挙に使い切ってしまうと、一生魔法が使えなくなったり、ひどい時には、死んでしまうことさえある。
気をつけるのだぞ」
タナトスには珍しく、言い聞かせるような口調だった。
「わか、ったわ……あ、お師匠様……は?」
「あ、あいつか。いや……あいつは……その、ちょっとな……」
タナトスは言葉を濁し、その様子に胸騒ぎを覚えた少女は、起き上がろうともがいた。
「えっ、まさか、お師匠様……死んじゃった、の!? そんな、起こしてよ、タナトス!
お、お師匠様──!」
「ま、待て、落ち着け、ジル。あいつは死んでなどおらんぞ!」
大慌てで彼は否定し、ジルは深く息を吐き出して、力を抜いた。
「そう、よかった……じゃあ、キズがひどい、の?」
魔族の王子は、少女の澄んだ眼差しを受け止めかねて、眼を伏せた。
「た、たしかにダメージは、残っている。昨日は、あのくそ天使めにひどくやられたからな……。
そ、それで……まだ起きて来ん、わけだ」
もぐもぐと、彼は言った。
「じゃ、何か元気の出るご飯……あ、起きれないんだった……。
もう、おいしいもの、たくさん作ってあげたいのに……!」
じれったげに叫ぶその声にも、力はない。
「そ、そんなに心配せんでも、俺が……その、昨夜、精気を分けてやった、から、今頃は、ピンピンしている……かも、知れん……」
「ホント? ありがとう、タナトス!」
「い、いや……」
純真な少女の、
「ま、待っていろ、今、ヤツを連れて来てやるから……」
「うん、待ってる、ね」
逃げるように去っていく後ろ姿に、ジルは期待を込めた視線を送った。
「サマエル、起きろ、ジルが会いたがっている」
地下室の深い闇に向かい、タナトスは声を掛けた。
それに応えて、一対の眼が目覚め、暗黒の只中に紅く燃え上がる。
ぱちんと指を鳴らして彼は燭台に灯をともし、闇の
その瞬間、揺らぐ炎に浮かび上がった情景は、ジルが見たら、声も出なかったに違いない。
床に投げ出された、昨夜、意識がないうちに脱がされた衣服……と、乱れたシーツ上に横たわる魔界の第二王子の、美しくも妖しい、一糸まとわぬ裸身……が、否応なしに眼に飛び込んで来たとしたなら。
「……こんな状態で、彼女に会えと言うのか」
サマエルは、けだるげに半身を起こした。
胸の傷はとうに消え、父親譲りの見事な銀髪が、透き通る肌をサラサラと流れ落ちる。
「仕方なかろう、彼女は……貴様を気遣っている。ほんの一時、見舞ってやれば……」
「出来るものか! 夢魔の力が戻り、しかも、制御出来ない──お前のせいでだ!
少なくとも、今日明日は、会うことなど出来はしない、会えば私は……彼女を……!」
弟王子の眼は乾いていたものの、震える白い指が、きつくシーツを握り締めていた。
兄王子は、母譲りの、闇に溶け込む漆黒の髪に手をやり、大儀そうに息を吐き出した。
「ち、そこまでは考えなかったな……」
「───!」
サマエルは、さっと首を回し、氷のごとく冷たい目つきで兄を
普段は、口調も態度も物柔らかな彼が、そういう表情をすると、兄であるタナトスにひどく似てくる。
「目先にぶら下がっていることしか見えないお前の、どこに考える頭があるのだ、この、サカリのついたオス猫め!」
彼は珍しくも、噛みつくように言い放った。
「な、何だと……!」
タナトスも激しかけたが、弟の瞳に、闇の炎がチロチロと燃え上がりかけているのを眼にすると、怒りは急速に冷めていった。
「まあいい、今日だけは、無礼は
だが、こうなると、何と伝えればいいものか……」
それを聞いたサマエルは、ため息交じりに髪をかき上げた。
銀細工のようなそれは、ロウソクの灯りを反射し、キラキラと輝く。
「……まったく、そんなことも考えつかないのか? 少しは、頭を使ったらどうだ。
眠っていると言えばいいだろう、力を回復するために、数日間は眠って過ごすから、心配いらないと」
「む……たしかに、そう言うしかあるまいな」
言いながら、タナトスはローブを拾い上げ、弟の細い肩に掛けてやる。
しかし、サマエルは、さも嫌そうに身をよじらせ、それは肩から滑り落ちて、再び床で丸まった。
「貴様、優しくしてやれば!」
「まだ、何かあるのか、タナトス。彼女が待っているのだろう、さっさと行くがいい」
声自体は、ひどく穏やかだった。
だが、言い返そうとした兄王子に向かい、どす黒い妖気が弟王子の全身から湧き上がり、白銀の髪までが、何十匹もの蛇となって鎌首をもたげ、一斉に
タナトスは反論を諦め、ジルの部屋へと取って返した。