~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

5.白い翼の刺客(3)

「……何だか、とっても楽しそう、なんだけど」
「あんなに、生き生きしたタナトス様、初めて見るわね」
ジルとイナンナは、顔を見合わせていた。
「あいつは、闘うことがとても好きだからね……あれでも、珍しく手加減しているのだよ。
キミ達がいなければ、とっくに、この山は原形をとどめていないだろう」
サマエルは、プロケルをながら言った。
「プロケルさん、どう?」
「……かなりひどいな。防御する間もなく、最強の聖魔法の直撃を受けてしまったから。
回復を手助けした方がよさそうだ。
済まないが、ジル、治癒魔法を使ってくれ。私は、この結界を張るので手一杯だ」

「分かったわ。頑張ってね、プロケルさん」
「も、申し訳……寄る年波に……勝てず……」
「しゃべっちゃダメよ。
──イストール!」
「これを包帯にしましょう」
イナンナはマントを外し、短剣で細長く引き裂き始めた。

その間に、タナトスは、ほとんどの天使を倒してしまっていた。
「よし、あらかた片づいた。さあ、エセ天使、残りは貴様だけだぞ!」
「ふん、たかが、下級天使を何百人倒したところで、自慢にもならぬわ!
我直々に、死をたまわれるとは名誉なことぞ、ありがたく思うがいい!」

魔界の王子と大天使の、一騎打ちがついに始まった。
それでも、さすがに天使の長、ミカエルは、下級天使達のようにはいかなかった。
最初こそ、互角のように見えていた闘いも、やがてじりじりとタナトスが押され始め、しまいには彼の攻撃は、天使にかすりもしなくなって来た。

(……まずいな。このまま、タナトスがやられたら……)
サマエルは、素早く考えを巡らし、心の声で弟子に話しかけた。

“ジル、私は、タナトスに加勢しに行く。その間、結界を張っていてくれ。
卑劣な天界人のことだ、動けないプロケルや、イナンナを人質にしてキミをさらっていこうとするかも知れない、くれぐれも気をつけるのだよ”
“う、うん。お師匠様も気をつけて”
サマエルは結界を解き、兄の許へ向かう。ジルが続けて、さっと結界を結んだ。

折しも、天使の長は、魔族の第一王子を追い詰めているところだった。
「闇に巣食う汚れた獣め、天使の長たる我との力の差、思い知ったか!」
「く、くそっ……!」
「されど、観賞用としても、人質としても、そなたの利用価値は計り知れぬ。
地べたにいつくばって命乞いするならば、助けてやらぬこともないぞ」

「ふざけるな! 俺は次期の魔界王だぞ、誰にも頭など下げん!
それに、俺はまだやれる、さっさとかかって来い、金色頭のチキン野郎め!」
傷だらけで息を弾ませ、唇から血を滴らせながらも、誇り高い魔族の王子は屈服するのを拒み、毒づいた。
大天使は、冷酷な灰色の眼で、生意気な魔物の若造をにらみ据えた。
「あくまでも従わぬと申すのだな!
ならば、もはや容赦はせぬ、末期まつごの祈りでも唱えよ、口ばかり達者な青二才めが!
──グローリア・イン・エクセルシス・ディオウ!」

「で、殿下っ!」
「タナトス様!」
「危ない、タナトス!」
口々に叫ぶ三人の前で、プロケルを倒したあの神々しい輝きが、第一王子を襲う。

「……? もうしまいか? 多少ビリッと来たが、どこも何ともないぞ?」
ついさっき、魔界公がやられたところを見ているだけに、タナトスは面食らい、自分の体を見回した。
奇妙なことに、天使が唱えた魔法は、彼にはまったく効力を及ぼさなかったのだ。

彼以上に驚いていたのは大天使だった。
「そ、そんな馬鹿な!
これは、天界の魔法の中でも選り抜きの……先ほどの魔物には効いたと申すに、何ゆえ……」

「……おやおや、天使の長ともあろう者が、勉強不足だな。
聖魔法など、私やタナトスには、ほとんど効果がない……常時我らを見張っている下級天使なら、誰でも知っていることだ。
仕事を部下任せにして、自分だけの楽しみにかまけているから、こうなるのだぞ」
「うっ、貴様!」
いつの間にか自分のすぐ後ろに、魔物がたたずんでいることに気づいた天使は立ちすくみ、その顔からは、見る間に血の気が引いていく。

「さて、どうするかな、天使長殿?
一対一では、お前も、タナトスを圧倒できたが、二対一ならば、どうだろうね……?」
「く、卑怯な!」
天使は歯を食いしばり、魔族の第二王子は肩をすくめた。
「やれやれ……今さら、お前ごときに、卑怯者呼ばわりされる筋合いはないぞ。
……どうも、天界人と言うのは、物覚えが悪いようだな。
太古より、そちらの方が、よほど卑劣な真似をして来ているではないか」

「サマエル、邪魔するな、こいつは俺の獲物だ!」
「落ち着いて考えるがいい、タナトス。
我ら二人だけで、けが人を含めた三人を守って戦わねばならないのだぞ。
それに引き換え、こやつは、いくらでも援軍を呼べる態勢で来ている、今戦うのは、どう考えても不利だ。
ここは、天使長殿に大人しく引き下がっていただくのが最良の策……どうかな、ミカエル殿?」

ふらつきながらも頑固がんこに叫ぶタナトスに、サマエルは、眼で大天使を牽制けんせいしつつ答える。
そして、言い方だけは穏やかな魔物の紅い瞳に、ぽおっと妖しい闇の炎がともり、狂おしく燃え広がってゆくのを眼にした大天使の額に、いやな汗が、じわじわとにじみ出てきた。

「わ、分かった、今は退こう……」
ミカエルは、大人しく後ろを向いた。
……と思った次の瞬間。
「──などと、我が言うと思うてか、この異形いぎょうの化け物ども!
──イン・イクストリミス!」
「うわっ!」
不意を突かれ、至近距離から強力な魔法を浴びせられたサマエルは、ひとたまりもなく倒れた。

「ああっ、サマエル様!」
「くそっ、どこまで卑劣なヤツめ!」
「とどめだ、死ね、“紅龍”!」
ミカエルが、さらに呪文を唱えようとした、その時だった。

「お師匠様────っ!」
血を吐くような叫びと共に、小さな体に似合わないほど強烈な光が、ジルの体を輝かせたのだ。
はっとする五人の目前で、その白熱した光は、ぐんぐんふくれ上がって空間を満たし、ついには天使の体に到達した。
「ぎゃああああ────!!」
束の間、全員が視力を奪われ、ミカエルの悲鳴が、遠くなっていく。

「ああ、ジル、ジル、死なないでくれ、私などのために……!」
ようやく光が消え、その声に皆が眼を開けてみると、サマエルが栗毛の少女に取りすがっていた。

「ジルがどうした、サマエル!」
「早く、彼女に魔力を! 今ので、力を使い切ってしまったのだ!」
「何いっ! 待っていろ、ジル!
──オルゴン!」
タナトスは、急ぎ少女の額に手を当て、魔力を注ぎ込んだ。

「よし、これでもう大丈夫だ……。
だが、なぜ、貴様がくれてやらんのだ、手遅れになったらどうする気だ!」
「そんなことより、ミカエルはどうした? まだ近くにいるかも知れない、油断はできないぞ」
詰め寄る兄の気勢をそぐように、サマエルは言った。

タナトスは、すぐに気配を探った。
「ふむ……よし、完全に気配は消えている。
不意打ちを食らわしたつもりが、あべこべにやられてしまい、尻尾を巻いて逃げ出したと見える……人族の少女にだ。
天使の長ともあろう者が、情けないこと、この上ないな」

「ジル、大丈夫なの、しっかり!」
意識のない従妹を、必死の面持ちで銀髪の少女が揺さぶる。
「心配はいらん、イナンナ。ジルは気を失っているだけだ。
ともかく、ひとまず、屋敷に引き上げた方がいいだろう。
あのくそ天使が、すぐに戻ってくるとは思えんが、大事をとって結界を強化せねば……ん?
どうした貴様、ふらついているぞ」

「タナ、トス、屋敷まで……連れて行ってくれない、か。私は……力が、もう、ない……」
「貴様、あれしきのことで……?」
「詳しいことは……帰ってからだ……早、く」
「あ、ああ、そうだな。
──ムーヴ!」

タナトスは易々やすやすと、全員を一度に運んだ。