~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

5.白い翼の刺客(2)

「ええい、左様な意味ではない! 夢魔は、女性を……」
言いかけて大天使は、この純真な少女には到底理解出来まいと思い、言い直した。
「いや、聞くがよい、ジル、我らは、そなたのためを思って……」

「あたしのため? 女神になると、いいことでもあるの?」
「無論だ。まず、人界より女神に選ばれ、天界に住むと言うこと自体、大変名誉なことゆえ、天界にて、そなたは、神々並びに天使の賞賛を常時浴びることとなるのだ。
その上で、素晴らしいドレスや美しい装身具を身につけ、壮大な屋敷内で、召使にすべてを任せて楽しく暮らせる。
また、山海の珍味を食することも思いのままだ。のみならず……」

「でも、人界には帰れないのね」
お下げの少女は冷静に、その後を引き取った。
「それに代わる見返りは大きいであろうが。
そなたはすぐに、人界のことなぞ、忘れてしまうであろうよ」
天使は自信満々で言ってのける。

「忘れたりなんかしないわ、あたし。
でも……あ、そっか、どっかで聞いたことあると思ったら、タナトスとおんなじこと言うのね、天使さん。
タナトスもね、会ってすぐプロポーズしてきたのよ。
魔界に行けば、夢のような暮らしが出来る、みたいな……」

「な、何! それでそなたは!」
大天使は、勢い込んで訊いた。
「もちろん、断ったけど。あたし、魔界になんか行きたくないもの」
彼女の答えに、ミカエルは、大げさな仕草で胸をなで下ろした。
「大変結構なことだ……賢明な選択と言っていい」

「けど、どうして女神になったら、人間や魔族と仲良くしちゃいけないの?」
ジルは、可愛らしく小首をかしげた。
「それは……」
天使は、一瞬言葉に詰まったが、すぐに話を続けた。
「つまるところ、だ。
人族ならばまだしも、悪魔、特にここにおる夢魔どもは、そなたのような……うむ、清純なる娘ごには到底聞かせられぬ(たぐい)の、悪さを散々働いておるからだ」

ジルは、勢いよく(かぶり)を振った。
「そんなの嘘よ。
お師匠様はもちろん、タナトスも、プロケルさんだって優しいし、悪いことなんてしてないわ」
「ええい、分からぬ娘だ、そなたは夢魔どもに騙されておるのだぞ!
このままおれば、体中の精気を吸い尽くされ、やがては、魂まで食われてしまうのだ!」
天使は、少女に向けて指を振り立てた。

「騙されてなんかないわ、あなたこそ、なに言ってるの!
あたしの周りには、悪いことする魔族なんて、一人もいないんだから!」
ジルは胸を張って言ってのけ、魔物達の賞賛の眼差しを勝ち取った。
イナンナも、うなずいている。

「でも、何か変ね。
神様って、みんなと仲良くしなさいって教えてる、偉いひとと思ってたのが違うのかな……それとも、あなた、天使の偽者?」
首をかしげながら、少女は大天使を指差す。
「くっ! 我は正真正銘の天使だ、いつわりなど申してはおらぬ、この眼をしかと見よ!」
顔を真っ赤にして叫んでから、天使長は、相手は悪魔ではなく、女神の候補生だと言うことに思い当たった。
ミカエルは大きく息を吸い込み、気を落ち着かせてから話し始めた。

「ジルよ、たしかに皆と共存するは理想。しかしながら、悪魔は別物なのだ。
人々の心に悪の種をいて堕落させ、汚れてしまった魂を食う、忌まわしい者どもと、
これ以上関わってはならぬ。
見るがよい、この醜い角、薄汚い翼を。その上、邪悪な気を放つとなれば、害をなすに決まっておろう。
悪魔が犯す罪を、未然に防ぐも我ら天界びとの役目なのだ。
人界へ戻れぬのは辛かろうが、悪魔の毒牙にかかる人間を救うと言う、崇高な使命を果たすためなのだぞ。
夢魔に泣かされる乙女達の悲嘆を、あるいは、闇にち、魂を食われる男達の悲鳴を、少しでも減らしたいとは思わぬか、ジル」
彼は、厳粛な面持ちで話し続け、今度こそ説得に成功したと確信した。

栗色の眼を見開いて聞き入っていたジルは、話が終わると従姉を振り返った。
「ねぇ、イナンナ。お母さん達言ってたわよね、ヒトを外見で判断しちゃいけませんって。
……それに、あたし、このヒトの言ってること、ホントだとは思えない。
だって、正体が分かっちゃったとき、お師匠様は、あたしをお屋敷から出そうとしたのよ。
魔法で忘れさせるか、そのときにあたしの精気を吸うなり、魂を食べちゃってもよかったのに。
それまでも、その後も、いくらでも機会はあったはずなのに、お師匠様はそんなことはしてないんだから」

「……ええ。わたしも、一概に、魔族を悪とは言い切れないと思う。
それに、どちらかと言ったら、この人の方が、やっぱり怪しいわ。
行っては駄目よ、ジル。危ない人かも知れないもの」
イナンナは、自分が感じたままを答える。
「な、何を申すか、この娘らは!」
天使は眼をむき、またも魔物達は噴き出した。

代表するように、笑いを噛み殺しながらタナトスが口を開く。
「くっくっ……た、たしかに危ないヤツだがな。
しかし、神が偉いだと? キミは何も知らんのだな、ジル。
こやつらは、清らかな見かけと奇跡とで人族の眼をくらまし、たぶらかしてはいるが、その実、我らなど及びもつかんほど、極悪非道ごくあくひどうな者どもなのだ。
死の衣をまとった侵略者、白い翼の悪魔、それこそが神族……天使の正体なのだからな!」

「な、何を申すやら、こちらが下手に出ておれば付け上がりおって!
大体、そこな忌々しい“紅龍”は、女神を汚し、死に追いやった張本人ではないか、その罪で人界に流刑るけいになったのであろうが!」
大天使は、荒々しく、サマエルに指を突きつけた。
「……えっ」
「お、お師匠様が、そんなこと……?」
イナンナとジルは、驚きの視線を第二王子に向ける。
サマエルは無言で、眼を伏せた。

「もはや勘弁ならぬ、女神候補の前で無益な殺生せっしょうはすまいと思っておったが、かくなる上は、女神のかたき、討たせてもらうぞ!
汚れた悪魔めを、すべて後腐れなく退治てくれよう!
──グローリア・イン・エクセルシス・ディオウ!」
怒り心頭に達したミカエルは、大声で聖なる呪文を唱えた。

「危ない、殿下──うわーっ!」
とっさに、プロケルはタナトスをかばい、魔法の直撃を受けて倒れてしまった。
花畑が血に染まる。
全身が、ずたずたに切り裂かれていた。
「きゃあ!」
「プロケルさんっ!」
少女達の悲鳴が交錯する。

「プロケル、しっかりしろ! 死ぬな! 俺の身代わりに死ぬことなど、許さんぞ!」
豪華な衣装が汚れるのもいとわず、タナトスが、ぐったりと横たわる体を抱き起こすと、さすが老いたりとは言え魔界の武将、プロケルにはまだ息があった。
「で、殿下……ご、無事、で……」

「口を利くな、仇はとってやる。
サマエル、プロケルを頼むぞ!」
安堵した魔族の王子は、氷剣公を弟の結界近くへ送り付け、宿敵をキッとにらんだ。
「貴様! そっちがその気なら、俺も容赦はせん!」

対する天使長は、()える魔物には眼もくれず、両手を高々と天にかざした。
(いで)よ、天界の(つわもの)よ! この汚れた悪鬼どもを人界より駆逐くちくし、乙女らを救うのだ!」
再び金光色の雨が降り注ぐ。
途端に、何百人もの白装束しろしょうぞく姿の天使がわらわらと出現し、彼らを取り囲んだ。

「どうだ、恐れ入ったか、悪鬼ども!
だが、我とて天使、無益な殺生せっしょうは好まぬ、今、降参するならば、心がけに免じて助命してやるが、どうだ?
“光の檻”に封じ、美しき愛玩あいがん動物として、永遠に飼っておいてやるぞ!」

天使の無理難題に、タナトスは紅い眼を怒らせた。
「たわけ! どんな意味だろうと、貴様に愛玩されるなど、真っ平だ!」
「それは残念至極しごく。噂に名高い極上のインキュバスどもを、飼い馴らしてみても面白かろうと思ったのだがな……ふふ」
その一瞬、天使のものとはとても思えない、いやらしい笑みをミカエルは浮かべ、そこにいた全員……意識を失いかけていたプロケルでさえ、はっきりとそれを眼にした。

「ちいっ、気色悪い! 考えただけで虫酸むしずが走るわ!
くたばれ、このくそ外道げどうめが!」
宿敵を見据える魔界の貴族達の眼差しには、嫌悪感があふれ、中でもタナトスは、王族にふさわしくない毒を吐いたものの、すぐに気を変え、にやりとした。

「まあいいか。そういうことなら、心置きなく暴れられると言うものだ。腕が鳴るぞ!」
そう言うとタナトスは、うれしそうに左腕をぐるぐる回した。
その様子は、邪悪な魔物と言うよりも、新しい玩具(おもちゃ)を前にした少年が、眼を輝かせているといった感じに近かった。

素早く結界を解いて、プロケルを引き入れつつ、サマエルは兄に釘をさした。
「暴れるのはいいが、手加減するのだよ、タナトス。
お前が本気を出せば、この山などは軽く吹き飛んでしまう」
「ふん、売られたケンカだぞ、俺の知ったことか!
こいつをぶち殺すためなら、山の一つや二つ、どうということもなかろうが!」
タナトスは、はつらつと答える。

「見よ、これが野蛮な魔物の正体だ、こちらへ参れ、ジル、そしてもう一人の乙女よ!」
先ほどの、(まばた)き一つするほどの時間に、おのれの正体が露見したことにも気づかず、ミカエルは少女達に手を差し伸べた。
ジルとイナンナの体を悪寒が走り抜け、少女達はさっと寄り添い合う。
「──嫌よ! あなたの方から仕掛けたんでしょ、プロケルさんに、こんなケガまでさせて!」
「そうよ、ひどいわ!」
「あたし、絶っ対、天界には行かないし、女神になんか、ならないからっ!」
ジルは叫んだ。

「……それが、そなたらの答えか、よかろう。ならば、力尽くでも連れて参る。
者ども、まずは、そこな悪魔を滅せよ!」
大天使の合図に、白装束しろしょうぞくの集団が、一斉にタナトス目がけて殺到する。
「ふっ、ザコどもが。俺独りで十分だ」
タナトスは不敵に笑い、嬉々ききとして戦闘を開始した。