~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

5.白い翼の刺客(1)

それは、いつものように、皆で花畑へ行ったときのことだった。
昼食も済み、ジルとイナンナが花を摘んでいると、晴れ渡った天空から、いく筋もの光が、黄金の糸のように煌きらめきながら降り注いで来たのだ。

「皆、見て! 金色の雨が降って来たわ、キレイ!」
ジルの声に、イナンナは額に手をかざして天を仰いだ。
「本当、綺麗ね……あら? でも、これ、雨じゃないみたいよ?」
「ジル、イナンナ、じっとしていなさい。ここから出てはいけない」
驚嘆の声を上げる少女達とは裏腹に、魔界の貴族たちはさっと緊張し、中でもサマエルは、彼女らの周囲に結界まで張って、何かに備えた。

「お師匠様、どうしたの?」
「サマエル様、この光が何か?」
少女達に問われた魔族の第二王子は、かすかに表情を曇らせた。
「……いや、ちょっとね。大丈夫、何があっても、私達がついているから心配ないよ。
しかし、タナトス、まずいことになったな」

話を振られたタナトスは、眉間にしわを寄せた。
「ああ。よもやと思ったが、この忌々いまいましい気……。
くそ、こんなところで……!」
「同感でございますな。天界の監視者などが、何ゆえ今頃……」
プロケルが言いかけたとき。

「無礼者めが! たかが、見張りの下級天使ごときと、我を同一視しおって!
悪鬼が三匹も揃いおって、何を企んでおるのだ!」
尊大な声が轟とどろくと同時に、眼にしみるほど白く輝くローブを着込んだ男が出現した。
厳いかめしい顔付き、灰色をした冷たい眼、後光のように清らかな光を発する金髪と、汚れない白鳥の翼を見れば、一目で正体が分かる。

タナトスは、負けまいとして大声を出した。
「無礼は貴様の方だろう! 魔界の王族に対して、その態度は何だ!」
「ふっ、笑止しょうし。王族だと? 奈落の汚泥底おでいぞこに棲すまう、不浄な蛇どもの長おさか?
常ならば、その方らごときは指一本で滅せられるが、今はかまけている暇はない。
我が用があるのは、そこの娘だ」

あざけるように言った男の視線は、まっすぐに、栗毛の少女に向けられていた。
「あ、あたし……?」
ジルが驚いて後ずさると、イナンナはすらりと剣を抜き、サマエルは少女達を後ろにかばい、身構えた。

「む、大人しく結界から娘を出せ、毒蛇め! 邪魔立て致すと為にならぬぞ!」
謎の男は、サマエルに向かって指を振り立てた。
魔界の王子は、威圧的な男の様子に油断なく眼を配りながらも、口調だけは穏やかに答えた。
「私は彼女の師匠だ。可愛い弟子を、そのように傍若無人ぼうじゃくぶじんに振る舞う者に、黙って差し出すわけにはいかないね」

「何が師匠か、夢魔が女性に教えられることと言ったら、ただの一つしかあるまいが!
引き渡さぬと申すなら、容赦はせぬぞ、聖なる御み言葉で退治てくれるわ!
──ディ…」

男が呪文を唱えようとしたとき、サマエルの後ろから声が飛んだ。
「おやめなさい!
突然やって来て女の子をよこせだなんて、山賊か追いはぎも同然でしょう、そんな怪しい男に、どうして、ジルを渡さなければならないの!」
女一人であちこち旅して色々経験もあったのだろう、剣を構えたまま男を見据える、イナンナの語気は鋭かった。

「何と……!」
プロケルは絶句し、猫眼の虹彩がみるみる広がって円盤状になる。
「あっはっはっは!
こ、これはたまらん、“天使”に対して、山賊に、追いはぎとは!
たしかに、こやつにはピッタリな形容詞だがな!」
タナトスは、切羽詰った状況にあることも忘れて腹を抱えた。
「くっくっく……さすがに女性の勘は鋭い。言い得て妙だな、“怪しい男”よ?」
サマエルまでもが、フードの陰で忍び笑いを始めていた。

天使は恐ろしい形相ぎょうそうになり、ギリギリ歯を噛み鳴らした。
「くううっ、この無礼者ども! 我は天使の長ぞ、天罰が恐ろしくはないのか!」
「何だと、やる気か、貴様!」
やる気満々のタナトスが、今にも突っかかって行きそうになった瞬間。
「待って、皆、ケンカしないで!」
当のジルが、前に進み出たのだ。

「ジル、危ないから……」
手を差し伸べるサマエルを制し、彼女は言った。
「大丈夫よ、お師匠様。
え~と、天使さん……も、あんまりカッカしないで。
こういうときは、ちゃんと名乗ってから、用件を言うものだと思うけど。
いきなり来て、あいさつもなしじゃ、誰だってびっくりしちゃうでしょ?」
ジルのどこかのんびりした口調には、相手を落ち着かせ、聞き入らせてしまう不思議な力がある。
それが、ここでも遺憾なく発揮された。

「たしかに、そなたの申す通り。
つい、魔物どもの挑発に乗って気を荒立ててしまった、許されよ、ジル・アラディア」
たちまち、天使は冷静になり、会釈えしゃくをした。
「さすがに、天界の女神に推挙すいきょされるだけはある、我も一瞬で頭が冷えたわ」

「天界の女神だとぉ!?」
「女神に推挙……!?」
次期魔界王と公爵、魔界の貴族達は、期せずして同時に叫んだ。

「左様。……おう、それから、あいさつが遅れたが、我は大天使ミカエルと申す者。
天界にて天使長を務めておる、見知り置きを、ジル。
実は、そなたの魔力の強さ、並びに清き心は、神族間でも評判になっておってな。
数年に渡り、我らは、慎重に観察しておったのだ。
その結果、そなたを女神に推挙し、天界に住まうを許可するに相成あいなった。
謹つつしんでこれを受け、ただ今より、我と共に天界へと参るがよい」

「……お師匠様、今の、何の呪文? 何も起こらないけど」
ジルは、けげんそうな顔でサマエルを見上げた。
天使の使う、古めかしく難しい言い回しは、少女の理解を超えていた。
「呪文ではないよ、ジル。
この天使は、『キミを天界の女神として迎えたいから、今すぐ一緒に来て欲しい』、そう言っているのだ」

「ええっ!?」
「何ですって!?」
彼の答えに、ジルだけでなくイナンナも声を上げた。
「と、突然湧いて来て、唐突に何を言い出すのだ、こやつは!」
「そう吼ほえるな、タナトス。私に任せてくれ」
獲物を見つけた猟犬さながら、すぐにも飛びかかっていきそうな兄をサマエルは抑え、天使に向き直った。

「さてと、ミカエル。久しぶりだな」
「称号をつけよ、天使長と! この猛毒の紅サソリめ!」
「大声を出さなくとも聞こえているよ、耳はいいのでね。
それより、お前も私を名で呼ぶがいい。覚えているのだろう?
耄碌もうろくして、忘れ果ててしまっていなければ、だがな」
「くうっ、何を申すか、誰が耄碌など!
天使の名に似た響きを持っておるゆえ、使いたくないだけだ、この悪魔めがっ!」

凶暴な顔付きでわめき立てる天使とは対照的に、魔族の第二王子は、爽さわやかな笑みを浮かべ、口調も穏やかだった。
「たしかにね。魔界でもそう言われるよ、"裏切り者"にはピッタリの名だと。
私は気に入っているけれど……なかなか風刺が効いていて、いいと思わないか?
それはそうと、お前の用向きは分かったが、本人の意向を確認もせず、即、天界へ連れて行くと言うのは乱暴過ぎはしないかな。
何ゆえ、それほど急ぐのだ? お前達の意図いとが不明なうちは、まともに話をする気にも……」

「意図など聞かんでも分かっておるわ!
近頃、天界の女どもは、子もろくに産めんと言うではないか。
人員不足を補うために、こうして、魔力の強い娘を拉致し、女神に仕立て上げておるのだろうが!
こやつらは、山賊や追いはぎより質たちの悪い、人さらい……誘拐犯だ!」
荒っぽく弟をさえぎり、兄王子は、天使に向かって指を突きつけた。

「ら、拉致……人さらい、誘拐犯だと──!
女神に推挙される名誉も理解出来ぬ愚か者めが、何を人聞きの悪いことを申すか!」
ミカエルは、負けじとさらに大声を張り上げた。

「……ね、お師匠様。あたし、天界に行かなきゃいけないの?」
魔界の王子と大天使のやり取りを見守る少女の瞳に、おびえの色が広がってゆく。
「嫌って言っても、連れて行かれちゃう?」
「大丈夫だよ、心配はいらない、そんなことは決してさせないから」
その優しい言葉も、聞こえた様子もない。
栗毛の少女は師匠の腕にしがみつき、体を震わせて激しく首を振った。
「──嫌! あたし、行きたくない! お師匠様や皆と離れたくない!」

ジルの叫びを耳にしたミカエルは、顔をしかめ、てタナトスとの口論から抜け出た。
「何を申すのだ、娘よ。女神ともなれば、人間などとはもはや関わりは持てぬ。
いや、それ以前に、そこな汚れた魔物どもと共におっては、いずれそなたの身も汚れてしまうのだぞ!」
「お、お師匠様達は汚くなんかないわ、毎日ちゃんとお風呂にも入ってるのよ!」
ローブの陰から顔だけ出して、ジルは言い返した。