~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

4.白銀の剣士(4)

「………!」
唇が合わさろうと言う瞬間、タナトスは、相手の頬に涙が流れているのに気づいた。
(参ったな、見れば見るほど上玉だから、ほんの一口だけ、味見するつもりだったのだが)
「済まんな」
一言だけ言い、そっと少女の涙をぬぐってやる。
それから、彼は、ぱちんと指を鳴らし、今の出来事を忘れさせた。

そうしてから、何事もなかったかのように尋ねた。
「それはそうと、キミは、あまりジルには似ておらんな。
キミは、ジルの母方の従姉だったか?」
「………?」
「どうした?」
「いえ、何でも。でも、ちょっと……いいえ、何でもありませんわ」
イナンナは、自分の濡れた頬に触れ、戸惑ったように頭を振って、話し続けた。

「父方の従姉です。わたしの父は四人兄弟の長男で、ジルのお父様は末っ子でした」
「ふむ。そう言えば、キミのことはあまり知らなかった。
キミの家族は、どうして、ジルの村から出たのだ?」

「実は……祖母は、ある貴族の一人娘だったのですが、昔駆け落ちして勘当かんどうされていたのだそうです。
伯爵だった曽祖父が亡くなり、曾祖母が探し当てたときには、当の祖母も、駆け落ち相手の祖父もすでに他界していました。
わたしと母は、父を亡くした直後だったこともあり、後継者として伯爵家に引き取られることになったのです」

「ほう。伯爵……このファイディー国のか?」
「ええ。でも、わたしは、貴族の暮らしになじめませんでした。
広大な屋敷に住み、きれいなドレスを着て豪華な食事を摂るよりも、村の子供達と泥まみれになって遊び、小さな家で貧しい食事を分け合っていたときの方が、幸せでしたわ……。
三年前に、母が再婚した後、わたしにも縁談が持ち上がり……母や祖母とも散々もめたあげく、もう、ほとほとうんざりしてしまって……。
それなら、独りで生きよう、剣術で身を立てようと旅に出たのです」

「……なるほど、健気けなげなことだな。
道理で、キミの顔立ちは上品だと思った。ジルより遥かに、礼儀作法もしっかりできているし。
しかし、血は争えんな。俺が、ジルに最初に結婚を申し込んだとき、同じようなことを言われたよ。
豪奢ごうしゃな生活より、もっといいものがある可能性に、初めて気づかされた……」

「そうだったのですか。
初めてお会いしたときはいざ知らず、今はタナトス様はいいお方だと分かっておりますけれど、正直申し上げて、ジルが魔界の王妃となっても、わたしのような思いをするのではないかと心配ですわ」

いいお方などと言われたタナトスは、複雑な表情をした。
「……う、まあ、それも、三年あとの話だな。今はジルを、サマエルから離すことを考えよう」
「そうですね」
何も知らないイナンナはうなずいた。

間もなく戻って来たサマエルに、二人は話をした。
無論、彼に異存はなく、ジルも渋々ながら、屋敷を出ることを了承した。
「ジル、これからも毎日会えるのだから、そんな悲壮な顔をするのはおやめ。
下の村でも暮らしも、きっと楽しいよ。
イナンナ、ジルをよろしく」
穏やかな笑みを浮かべている第二王子とは正反対に、少女は黙ったまま、大粒の涙をこぼした。

村に来てから、ジルは、ますます笑顔を見せなくなった。
家に閉じこもりがちで、食事の量も減り、何をするにも暗い顔で、黙々とこなした。
ほとんどの村人とは、すでに顔見知りだったにもかかわらず、あいさつをする程度で、決して自分から親しくなろうとはしなかった。

一月ほどして、サマエルが村にやって来た。
買い出しを口実に、弟子の様子を見に来たのだが、ジルのはしゃぎようと言ったらなかった。
「イナンナ。
ジルがやせて、色も白くなったような気がするのだが、こちらではどう過ごしているのかな」
ジルが席を外した隙に、彼はイナンナに尋ねた。
「ここへ来てから、あまり食べないのです。外へもほとんど出ませんし」

サマエルは顔色を変えた。
「そ、それはいけない。どこか悪いのだろうか」
「いいえ、ご心配には及びませんわ。体はどこも悪くありませんから。
そう仰るサマエル様も、少しおやせになられたようですけれど」
魔族の王子は、悲しげに小首をかしげた。
「……たしかに、ジルが屋敷にいないと思うと、あまり食が進まなくてね……おかしなものだ、毎日会っていると言うのに」

「まあ……」
イナンナは緑の眼を見張った。
「ああ、そうは言っても、私がジルを食料として見ていた訳ではないよ。
誓って、彼女の精気は奪ったことなどないし」
「分かっていますわ、もちろん。
精気を抜かれていたなら、あんなに元気でいられるはずがありませんもの」

サマエルがそれに答えようとしたとき、ジルがお茶の用意を整えて、部屋に入って来た。
「お待ちどうさま。
でも、何か、すっごく久しぶりに会った気がするわ、お師匠様と」
「そうかな。毎日顔を合わせているのに」
「……だって」

そこで絶句し、目線を落とした栗毛の少女は、ひと呼吸置いて、元気よく顔を上げた。
「ね、今日は、晩ご飯食べてって。腕によりを掛けて、う~んとおいしいもの、作るから。
いいでしょ、たまには?」

イナンナと眼を合わせてから、サマエルは答えた。
「そう、だね。でも、今日だけだよ」
「わあい!」
ジルは、子供のように飛び上がって喜んだ。
栗色の瞳に光が戻り、やつれた頬にも紅が差す。
この家に来てから、従妹がこれほど生き生きとするのを見たことがなかったイナンナは、彼らを引き離したのは間違いではなかったのかと、後悔し始めていた。

「今、あなたが天使のように見えましたわ」
夜も更け、はしゃぎ疲れたジルを寝かしつける優しい仕草、弟子を見守る温かな眼差しに、イナンナは深く考えずに、口に出していた。
しかし、振り返った魔界の王族の視線は、彼女がたじろぐほど強いものだった。

「天使──? 私は悪魔だよ。
世界を滅ぼすために生まれて来た、この世で最も忌まわしい魔物なのだ。
そう、天使だと言うなら、“死の天使”だ。
人々に苦痛と恐怖と死をもたらす、裏切り者の堕天使、……それが私なのだよ、イナンナ。
この外見……女性のような見かけに騙されてはいけない。
私の本性を知ったら、キミやジルは、私と関わり合いになったことを一生後悔するだろう。
そんなことを、二度と口にしないでくれ」

「も、申し訳ありません……」
少女は涙ぐみ、その美しい涙に、魔界の王子は我に返った。
「……済まない。つい、きつい言い方をしてしまった。
名前のせいもあって、私は……散々ののしられてきたのでね……。
私でなくとも、魔族に“天使のよう”と言うのは禁句なのだよ。
それだけは覚えておいた方がいい。いらぬ摩擦を避けることにもなる」

「はい、済みませんでした」
「こちらこそ。
何も知らない人族の女性に声を荒げてしまうなんて、本当にどうかしているな」
それも、愛する少女と離れて暮らさなければならない苛立ちのせいなのだろうと、イナンナは推測した。

それからは、月に一度くらい、不定期にサマエルが彼女達の家に来て、三人でささやかな晩餐会を開くのが通例となった。
タナトス達には内緒にしておいた方がいいだろうと、言い出したのはイナンナだった。
もし、食事を共にしているところに彼らが来合わせたとしても、“遅くなったから、たまたま一緒に食事をすることになった”と言うことにしておいた方がいいのはたしかだった。

晩餐会のお陰で、ジルも徐々に元気を取り戻し、それはサマエルも同様だった。
この二人は、離れていてはいけないのだと実感したイナンナが、どうにかして従妹を屋敷に戻す手立てはないものかと思案し始めた矢先、事件は起きた。