4.白銀の剣士(3)
こうして、タナトスが現れてからと言うもの、ジルの周辺環境は激変した。
彼が出入りするだけでなく、プロケルが住み込み、イナンナも結局、同居することとなり、初めこそ、にぎやかになったことを喜んでいたジルも、次第に、違和感を持つようになっていった。
本人に自覚はなかったものの、さまざまな出来事の結果、今まではただ無邪気に、恩師……保護者と思っていたサマエルが、別な色合いを帯びて見えるようになって来ていたのだ。
それは、常にローブに隠していた素顔を、サマエルが表に出すようになったこととも無縁ではなかった。
芸術家の手になる彫像のような、完璧な美を備えた男。
それが、自分の師匠なのだと、彼女は改めて知った。
その見とれるほど美しい微笑を向けられたなら、ジルならずとも、どぎまぎしてしまっただろう。
額に植え込まれた一角獣を思わせる真珠色の角や、染めたわけでもないのに、右生え際に、紫に輝く一筋がある銀髪も、その美貌によく映えていた。
しかし、弟子の反応に気づいたサマエルは、再びフードを深々とかぶり、授業の時以外、接触を避けるようになり、どうかすると、食事も一緒に
そんなことが続いたある日、彼女は、思い切って師匠に尋ねてみた。
「お師匠様、どうして、この頃あたしを避けるの? あたしのこと、嫌いになっちゃったの?」
「そういうわけではないのだ、ジル。
一緒にいる時間が長いほど、夢魔は、女性に影響を及ぼしてしまう……。
だから、なるべく離れていた方がいいのだよ。
本当なら、やはりキミは、ここから出た方がいいのだけれどね……」
フードの奥から、静かに彼は答えた。
「……あたしがいたら、困るの? あたしが、お師匠様を困らせてるの?」
「ある意味では……そうかも知れない」
「ごめんなさい、でも、あたし……」
「キミが謝る必要はない。
あと三年我慢してくれれば……いや、すべての魔法を覚えたらすぐにでも、キミは私から解放されるのだからね。
そうしたら、イナンナと二人、修行を兼ねて、旅に出てはどうかな」
優しく言い諭されても心は晴れず、ジルは、うなだれて師匠の部屋を後にした。
数か月ぶりに人界にやって来たタナトスは、愛する少女の変わりように驚いた。
「どうしたのだ、ジル。元気がないな。具合でも悪いのか?」
ひまわりのように明るく、よく笑う少女だったはずのジルは、常にうつむき加減の陰気な娘になってしまっていたのだ。
「ううん。何でもないわ。
……あ、お師匠様は、ちょっとお出かけしてるの。夕方には戻ると言ってたわ」
「そうか」
「久しぶりだから、ケーキ焼くわね。できたら呼ぶから、それまでお散歩でもしてて」
やつれた頬に、それでも無理に浮かべる笑みが、どこか痛々しい。
「ああ。急がなくていいから、うまいのを頼むぞ」
「……うん」
その小さい返事にも、まったく力がなかった。
愛する少女の暗い表情を見ながら、頭をひねっていたタナトスは、ある可能性に思い当たると顔色を変え、彼女の腕をつかんだ。
「ジル、まさか、サマエルに、何かされたのではなかろうな!?」
「えっ? ち、違う、お師匠様は何もしてないわ……」
「嘘をつけ、では、どうして、そんなにやつれているのだ!」
「は、放して! タナトスには関係ないんだから!」
少女は、彼の手を払いのけ、走っていってしまった。
考えれば考えるほど疑念は
タナトスは、もう一度詳しく聞こうと思い、台所に向かって歩きかけた。
ちょうどその時、いつものようにハーブを摘んできたイナンナに行き会った。
「あ、タナトス様、お久しぶりですね、今、お着きですか?」
「イナンナ、ジルの様子がおかしいのは、サマエルのせいだな!
言ってくれ、ヤツが、何かしたのだろう、彼女に!」
タナトスは、いきなり、少女の両肩をわしづかみにした。
「え、な、何……!?」
驚いたイナンナは、思わず籠を取り落としてしまった。
「口止めされているのか、イナンナ! 正直に話してくれ!」
面くらい、ろくに口も利けずにいる彼女に、タナトスはさらに追い討ちをかけ、激しく揺さぶる。
「タ、タナトス様、は、放してください、痛い……」
「あ、す、すまん、つい、興奮して……」
王子は慌てて手を放した。
「ハーブが……」
「おお、いかん」
彼は指を鳴らし、散らばった植物を魔法で元に戻すと、籠をイナンナに返した。
「ありがとうございます。でも、どうされたのですか、一体」
「あ、いや、その、……」
言いかけて、タナトスは、気を落ち着けるため深呼吸をし、それから口を開いた。
「実はな、今さっき、そこでジルに会ったのだが、やつれようが尋常ではなかったのだ、精気を吸われたとしか見えん。
サマエルのたわけめが、飢えに耐えかねて、ついに……。
そうなのだろう? イナンナ」
すると、イナンナは
「いいえ、それはタナトス様のお考え違いですわ。
ジルが落ち込んでいる理由は、その逆……と言ってもいいくらいです……」
「逆……?」
「ええ。サマエル様が、あの子を遠ざけなさっているから、なのですわ」
こちらもまた伏せ眼がちに、銀髪の美少女は答えた。
「何だと。本当か。たったそれだけの理由で、あんなに……?」
「ええ。お疑いなら、プロケル様にも、お尋ねになってはいかがです?
サマエル様は、この頃、公爵様とお二人で、地下室にこもっておいでのときが多いですから」
(夢魔が二人きりで、地下にしけこんで……だと?
ふん、どうせヤツのことだ、色仕掛けで、あの堅物公爵を
魔界の王子は思ったが、純真な少女に聞かせられる話ではなかった。
「いや、その必要はない、キミの言葉を信じよう」
「ありがとうございます」
彼の考えを知るよしもないイナンナは、軽く頭を下げた。
「ジルも、頭では仕方がないと分かっている、と思うのですけれど。
実の親子のように仲良く暮らして来たのに、ある日突然、夢魔だから一緒にいてはいけないと言われても、心はついていけないのでしょうね」
「ふ~む……」
「それでわたし、思っていたのです。
わたし達二人で、ふもとの村で暮らしたらどうかしらって。
学校に通うように、授業のときだけ、お屋敷に来ればいいかもって……。
いかがでしょう、タナトス様」
訊かれてタナトスは我に返った。
「あ……ああ、そいつはいい。このままでは、ジルも辛かろうしな」
「サマエル様が、お淋しくなると思いますけれど……」
「プロケルもいるのだ、気にせんでいい。
やつが帰ったら、さっそく話をしよう。いや、キミから話してくれた方がいいな。
俺が言っても、おそらくジルは聞き入れてはくれんだろうし、サマエルにも、下心があると思われて、警戒されてしまう」
「はい……可哀想ですけれど、仕方ありませんわね。ジルがもう少し、大人だったら……」
イナンナは、我がことのように悲しげに、若葉色の瞳を
「大人だったら、もっと問題ありだ。問答無用に、今すぐ引き離さねばならんぞ」
「まあ、そうなのですか?」
「むろんだ。たとえば……」
タナトスは、彼女の手を取り口づけた。
「こうされたら、キミはどう感じる?」
「えっ……」
イナンナは真っ赤になった。
「は、放して、下さい」
「キミの清らかな精気が欲しい……そう言ったら、キミはくれるか?」
「い、いや、放し、て……」
少女は手を振りほどこうともがいたが、夢魔の眼差しに意思を絡み取られ、その動きは、徐々に緩やかになる。
「じっとしていればすぐに済む。
極上の夢をくれてやろう……
夢魔の