4.白銀の剣士(2)
「そんなことより、今日はもう遅い。これから山を降りるのは大変だ、泊まって行きなさい、イナンナ。
積もる話もあることだろう」
気を取り直してサマエルが言うと、ジルは、ぱんと手を合わせた。
「そうよ、それがいいわ! 十年ぶりくらいになるんだもの!」
「そうね……では、お言葉に甘えさせて頂こうかしら」
イナンナにも断る理由はなく、両手を挙げてジルは喜びを表した。
「わ~い! 買い出しに行って来てよかった! う~んと、ご馳走作るからね!」
「わたしも手伝うわ」
楽しげに部屋を後にする少女達を見送る、魔族の第二王子サマエルの表情は硬く凍りつき、
その眼は過去に囚らえられて、ひたすら暗かった。
(やめて、兄様……痛い、苦しいよ、放して……!
どうして──どうして、こんなことするの……!
ええっ……僕が、いけない子だから……!?
……兄様、ああ、兄様ぁ……!
…………。
ああっ、何するの! いやだ、誰か、助けてっ!
兄様、助け……て、兄様っ! いや、痛い、これをほどいてっ──!)
「嫌だぁ──っ!」
サマエルは叫んで飛び起きた。
闇の中に彼の眼が、濡れて紅く光る。体中、冷たい汗にまみれていた。
「ああ、夢、か……」
小刻みに震える手で、首に触れる。
寝る前には何もなかったその場所には、今、くっきりと、何者かの手形が浮かび上がっていた。
「久しく……この夢は見なかったのに……タナトスが、あんなことを言うから……。
ふふ、夢魔が悪夢にうなされるなど、お笑いだな」
サマエルは自嘲じちょうの笑いを漏らし、両手で顔を覆った。
(あんな思いまでして……どうして私は、生き長らえてしまったのだろう。
あと二千年……死ぬ自由さえ、私にはない……。
私がいなければ、ジルも今頃は……いや、あの時私が助けなければ……ジルは……。
こんな私でも、何かの役には立っている……そう思って生きていてもいいのだろうか……)
翌日。
性懲しょうこりもなく、タナトスは再びやって来た。
「ま~た来たの、タナトス。あっきれた」
「……来てはいかんのか、ジル。
もう、俺のことが嫌になったか……?」
魔族の王子は、おずおずと訊いた。弟に対するときとは別人のように。
ほっとしたことに、栗毛の少女は首を横に振った。
「ううん。来ちゃダメとか、嫌って言ってるんじゃないの。
でも、あなたって、何て言うか……ちょっとヘンなんだもん」
「へ、変……俺がか?」
タナトスは驚いて自分を指差した。
魔族の王子、しかも次期の魔界王になる彼に、今までこんな物言いをした者は、
ただの一人もいなかったのだ。
小さい頃から忠告に耳を貸さないどころか、虫の居所が悪いときには容赦なく、相手が誰であろうと
殴り飛ばしていたのだから、当然ではあったのだが。
「そうよ、いきなり結婚してくれって言ったり、お父さんや兄弟を、死んだ方がいいとか言ったり。
魔界じゃ当たり前かもしれないけど、人界じゃ仲間はずれにされちゃうよ」
ジルは、彼を指差す。
「そ、そうなのか? 俺はずっと、そうして来ていたから……」
「そりゃそうよね、王子様なんだから。何言っても、皆、言うこと聞いてくれたんでしょう?
でも、わがままばっかじゃいけないと思うな。周りの人達だって、ホントは困ってるんじゃない?」
「……む。そう言えば、あいつらは、表立っては歯が浮くような世辞を並べているくせに、
陰に回っては俺の悪口を言っていたな」
「……でしょう? 王様になるんなら、他の人のことも考えてあげなくちゃ。
親切にしたら、皆もタナトスのこと好きになってくれて、色々助けてくれるわよ、きっと」
「ふん、家来ごときに助けられんでも、俺は独りですべてこなしてみせるわ!」
タナトスは虚勢を張った。
「ホントに、独りで何でもできる?」
「できるさ」
少女は小首をかしげる。
「……そうかなあ。タナトスはいっつも、面倒くさいことはイヤだって言ってるじゃない。
でも、誰かがやらなきゃいけないんでしょ、それって。
もし、代わってやってもらうんだったら、喜んでやってもらう方が、お互いに気分いいと
思うんだけどな、あたし」
「…………」
タナトスは、何と答えていいか分からず、この年端もゆかぬ少女を見つめていた。
(気がつくと……いつも自分は、当惑してこの娘を見ている。
あまりに違い過ぎるのだ、人族と魔族とはここまで異なっているものなのか。
それとも、環境の違いなのだろうか)
そう思っていたとき、ジルが言った。
「環境の違いね、きっと」
王子は眼を見張った。
「お、俺の心を読んだのか?」
「……え?」
「今、俺もそう思っていたのだ」
「へー、偶然ね」
ジルはにっこりした。
「あ、おはようございます、タナトス様」
そこへ銀髪の少女が、ハーブをいっぱい入れた籠を抱えてやってきた。
「あ? ああ、おはよう……」
タナトスは機械的に返事をした。一瞬誰だか分からなかったのだ。
肩を背中を波打つように流れる銀の巻き毛と、豊かな白い胸をした見知らぬ美少女。
よく見ると、それはジルの従姉だった。
結い上げていた髪を下ろし、胸の大きく開いた、女らしい服装をしていることで、
彼女の美しさは際立っていた。
(……む。これほど美しい娘だったとは)
彼はつぶやいた。
タナトスの眼差しには気づかず、イナンナは従妹に籠を渡す。
「ジル、これくらいあればいいかしら」
「わー、ありがと。これでおいしいスープと、ハーブティーができるわ。
さ、さっそく支度しましょ、イナンナ」
「お、俺も行っていいか……?」
タナトスがおずおずと口をはさむと、イナンナは緑の眼を丸くした。
「え、あなたが?」
「何だ、行ってはいかんと言うのか」
王子はむっとした。
銀髪の少女は否定の身振りをした。
「い、いえ。ですが、台所仕事などなさったことがおありですの?」
「ない。だが、興味が湧いた。
それに、昔……母が厨房に立っているそばで遊びながら、何か出来上がるのを
待っていたような記憶があって……」
「いいわ、タナトスも来て、手伝って」
ジルが言い、三人は連れ立って厨房へと向かった。
「どうだ、このスープは。俺がこの葉を、枝から外したのだぞ」
テーブルに並んだ、湯気の立つ食事の前で、得意げにタナトスは宣言した。
「タ、タナトス殿下が……?」
プロケルは、猫に似た虹彩を真ん丸くし、サマエルも珍しく、感情を面に表した。
「お前が!? ま、まさか、毒など仕込んだのでなかろうね?」
「ふん、心配するな。自分も口にするものに、毒を盛るたわけがどこにいる。
大体、サソリも同然な貴様に、毒なぞ効かんだろう」
そう言いながら、タナトスは上機嫌だった。
“タナトスはどうしたのだね、ジル”
サマエルは心の声で、弟子に尋ねた。
“ん~……何か分かんないけど、急に食事の用意を手伝ってくれるって言い出して。
とっても楽しそうに、葉っぱとってくれてたの”
“そうか。邪魔にならないようだったら、これからも手伝わせてやっておくれ”
兄の意図がよく分からないまま、サマエルはそう言った。
“うん。初めは困ったヒトだなあって思ったけど、タナトスって案外、いいヒトかも”
“そう……かな”
“……あのね、色んなこと、知らないだけなんだと思う。
誰も教えてあげる人がいなかったのかな……ってカンジ”
“……そうかも知れない。母は早くに亡くなったし、父はあいつを、甘やかし放題だったから……”
二人のやり取りに気づいたのか、タナトスは尋ねた。
「どうした、ジル。俺の作ったものは、舌に合わんか?」
「う、ううん、違うの。あのね……ちょ、ちょっと熱くって、冷ましてたの」
「作っただって? お前は葉を取っただけなのだろう?」
「うるさいぞ、サマエル。初めてなのだから、仕方あるまい。
これから徐々に、複雑なものをだな……」
「えっ……」
「何と……」
プロケルとサマエルは絶句し、期せずして顔を見合わせた。
食事の後、魔界公は、第二王子と二人きりになる機会を作った。
「ここ半年ほどで、随分とお変わりになりましたなぁ、タナトス様も」
感慨深げにプロケルは言う。
「そうだねぇ……あいつがこんなに進歩するとは……。
まあ、ジルに好かれたい一心で、やっているのだろうけれど……」
「それがしは初め、彼女は、このまま人界で過ごした方が幸せだと思っておりましたが。
こうなりますと……」
「魔界の王妃になった方が、私の許にいるより幸福だ、と……?」
サマエルの瞳に、悲しげな光が宿る。
公爵は慌てて否定した。
「い、いえ、そのようなことは……ですが、タナトス様に、これほどいい影響を与えることのできる者は、
他にはいないように思えまして。
……いや、申し訳ございません、サマエル様」
「いいよ、それも彼女次第だ。
たしかに私のような狂人といるよりは、彼女のためになるかも知れない、が……」
「分かっております、サマエル様も、ジルを……」
言いかけるプロケルの言葉をさえぎり、サマエルは、否定の身振りをした。
「いいや、私は彼女に恋愛感情は持っていない。
ただ、保護者として、彼女が一番幸せになる方法を考えているだけさ。
二人が相思相愛となれば、私の出番などはない……」
「左様でございますか……」
(サマエル様は、ご自分の心にお気づきでないのか?
いや、おそらく、立場をわきまえておいでなのだろう……。お気の毒な方だ、お小さい頃から……)
ひとり、プロケルはつぶやいた。