4.白銀の剣士(1)
「おい、サマエル、来てやったぞ。どこだ、ジル!
……何だ、誰もおらんのか」
再び二か月ほどが過ぎてタナトスが人界に来たとき、サマエルの屋敷は、しんと静まり返っていた。
「ちっ、また買い出しにいったのだな!」
三人で、和気あいあいと買い物をしているところを想像し、魔族の王子は舌打ちした。
プロケルならもういい年だし、ジルに手を出したりはしないだろうと思っていたのだが、魔界公もまた、
少女を気に入ってしまった様子が見て取れた。
しかも、ジルは分けへだてない性格なので、親身になってプロケルの世話をする。
それがタナトスには気に食わない。
それでも、プロケルに住み込みで弟を監視させるよう言い出したのは、彼自身だった。
(くそ、面白くない……あの時は、あれが最善の策のように思えたのだが!)
念のため花畑に行かせてみた使い魔も、誰もいないと告げて来て、タナトスの苛立ちは頂点に達していた。
その時、玄関で呼び鈴が鳴ったのだった。
使い魔を行かせようとして、どうせ暇なのだからと、彼は自分で行ってみる気になった。
「誰だ。何の用だ?」
彼はドアを開けようともせず、ぶっきらぼうに声を掛ける。
「ここが、賢者サマエル様のお屋敷と伺ってきた。賢者様はご在宅か」
張りのある声が尋ねた。
扉越しに聞くせいなのか、相手の男女の別は判然としない。
タナトスは好奇心に駆られ、急ぎ魔法でドアを開いた。
「あいにくだな。サマエルは留守だ」
「留守? や、魔物!」
叫びと共に、すばやく剣を抜いて身構えたのは、一人の剣士だった。
緑の瞳が、きつい光を帯びてタナトスの角と紅い両眼に注がれ、きりりと結い上げられた銀髪が揺れる。
(少年……?)
一瞬、彼はそう思ったが、匂いが違った。
「いや、貴様、女だな。女だてらに、随分ずいぶんと物騒ぶっそうなものを振りかざして……」
「賢者の屋敷に、なぜ魔物がいる!? ま、まさか……お前、サマエル様を……?
それに、ここにはジルと言う娘がいたはず、ジルをどこにやった、魔物!
答えによっては容赦はしない!」
女剣士は剣を構えたまま、再び叫んだ。
「ジル、だと? 貴様、ジルの何だ」
「わたしは、ジルの姉だ!」
「あ──姉!? しかし、ジルは天涯孤独だと言っていたぞ!」
意外な答えに、タナトスの声も思わず大きくなる。
「わたしは、正確には、ジルの従姉いとこに当たる者だ。
ジルがまだ小さいうちに、わたしの家族は村を離れたから、忘れているのだろう。
ずっと旅をしていて、疫病で村が全滅したと聞いたのは昨年のこと……。
悲嘆にくれているうち、風の噂で、ジルが賢者様の弟子になったと知ったのだ。
さあ、ジルはどこだ! 言わないとためにならないぞ!」
初夏の若葉色をした眼は怒りに燃え上がり、薔薇のつぼみのごとく匂い立つ朱唇しゅしんから、語気鋭く声が
発せられる。
銀の雨のように、ぱらりと顔にかかる髪を払いのけ、女剣士は剣を構え直した。
それでも、いくら美しくとも、いつものタナトスなら、こんな無礼な態度を取る者に対しては容赦せず、
即座に強力な魔法で葬り去っていたことだろう。
しかしこの美貌の剣士には、珍しく素直に答える気になった。
彼が知っている女達は、皆、次期魔界王である自分に媚こびを売り、取り入ろうとする者ばかり。
それに見飽きた眼には、この女剣士の凛々りりしい様子は新鮮に映り、彼はこの美少女が気に入ったのだ。
「ジルがどこに行ったかなど知らんわ。俺が来たときには、すでにもぬけの殻だったからな。
サマエルと一緒に、どこか買い出しにでも出かけたのだろう」
「え、買い出し?」
虚を突かれ、剣士は眼を丸くした。
「そうだ。食事の支度など、魔法を使えば一瞬でできると言うのに。
あやつらと来たら、いちいちどこかに買い物に行き、手まで使って調理するのだ。
専門の料理人にやらせるならともかく、自分で作るなど時間と労力の無駄だと思うが、
それが楽しいのだそうだ。人間と言うヤツは、今いち分からんな」
肩をすくめるタナトスを、女剣士は、深い湖の色をした瞳でじっと見ていた。
やがてその眼から敵意は消えて、剣を鞘に納め、彼女は頭を下げた。
「……申し訳ない、無礼をしました。ジルが心配だったので。
わたしはイナンナと言います、あなたは」
「気にするな、俺の名はタナトス。サマエルとは……そうだな、腐れ縁だとでも言っておこう」
「……そうですか。わたしはこれから下山して、ふもとの村に泊まることにします。
ジルに、そうお伝え願えますか」
「出直すより、中で待っていたらどうだ? もうじき帰って来るはずだ。
泊り掛けになるときは、必ず使い魔からの連絡があるからな」
「ですが……」
女剣士はためらい、それを目にした魔族の王子は、皮肉な笑みを浮かべた。
「魔物などとは一緒にいられん、か? ……それとも、俺に下心があるとでも?」
イナンナの頬に、ぱっと朱が散った。
「そ、そんなことは思ってません!」
「ならばいいではないか。心配はいらん。ジルの従姉殿を、粗雑に扱うつもりは俺にはない」
「あなたは、一体……?」
「興味があるなら、中で話そう」
「分かりました」
勝手知ったる他人の家、タナトスはイナンナを応接間に案内し、魔法で茶菓まで出してもてなした。
初対面とは思えないほど二人の会話は弾み、ジルより三つ年上の美少女のさっぱりした気性が、
話すに連れてさらに好ましく、タナトスには思えて来ていたのだが……。
「いえ、わたしは、魔法はまったく使えません」
彼の質問に少女がそう答えた途端、彼の熱は一気に冷めてしまった。
「……まあ、キミは人族だ。魔法が使えずとも、別段不自由はなかろう」
そうは言ったものの、先ほどまでの浮き浮きした気分は消え失せ、二度と戻っては来なかった。
イナンナも、急に彼の態度が冷淡になったのに気づいた。
「魔法も使えない女など用がない、ですか?
ひょっとして、あなたがジルに近づいたのは、彼女の魔力を利用するためではないでしょうね?」
「う、いや、それは……」
思わずタナトスは口ごもり、そんな魔界の王子に、銀髪の少女は厳しい眼差しを向けた。
「図星のようですね。
あなたが、真実ジルを愛して下さるなら、後は彼女の気持ち次第だと思っていましたが、
魔力が目当てと仰るなら、たとえジルがうんと言っても、わたしは反対しますよ」
「くっ、キミもサマエルと同じことを言うのだな!」
「当たり前でしょう! 女性は、子供を産む道具ではありませんわ!
ましてや、力ずくでさらって行こうなどと考えているのなら、わたしにも考えがあります!」
イナンナは再び、剣の柄に手をかけた。
一触即発の、その瞬間。
「ただいまあ、タナトス! あれ、お客様?」
ジルが、応接室に入って来た。
「おう、ジル、帰ったのか」
彼が振り返った刹那、女剣士が弾かれたように立ち上がり、ジルに駆け寄った。
「ああ、ジルね、会いたかった! わたしよ、イナンナよ、覚えていて?」
「えっ、イナンナ……?
……んー……あ、あっ? あーっ、ひょっとして、従姉いとこの……?」
「そうよ、ジル!」
「生きてたのね、イナンナおねえちゃん!」
二人は固く抱き合い、泣き出した。
タナトスはあっけにとられて、涙にくれる娘達を見ていた。
「後は腰を落ち着けて、お茶でも飲みながら話を続けてはどうかな」
少女達の興奮が少し収まったのを見計らい、サマエルは皆にお茶を振舞った。
「済みません、お騒がせしてしまって……」
紅く泣き腫らした眼で、イナンナは頭を下げた。
「いやいや、亡くなったとばかり思っていた親族に再会できたのだ、当然だよ。
久しぶりに、美しい涙を見せてもらったな」
そう微笑む弟を、不思議そうに見やって、タナトスは言った。
「血縁の者と逢うことが、そんなに喜ばしいことなのか?」
「あ、当たり前よ、あなただって、ずっと離れていたらそう思うでしょう?」
面食らって訊きき返すイナンナ同様、タナトスもまた驚いていた。
「俺が、親族と逢って喜ぶ、だと……?」
「お母さんはいなくても、お父さんがいるんでしょ、タナトス。
いつも一緒にいるから、ありがたみがわからないのよ、きっと。
そのお父さんと、離れ離れになっちゃったトコを想像してみて」
ジルが、取り成すように言う。
「ありがたみ? 何だ、それは。
俺は、あんなくそ親父など、早く墓に入ってしまえばいいとしか思っておらんぞ。
それどころか、一応、弟と言うことになっているこの出来損ないを、この手で葬ってやろうとしたことすらある」
彼女の言葉に当惑した彼は、弟を指差し、当然のように言ってのけた。
「まあ、ひどい!」
「なんでそんなことしたの、タナトス!」
二人の少女に、さも恐ろしげに見られて、魔族の王子は気を悪くした。
「ふん、何だその態度は!
魔界では弱肉強食が当たり前なのだ、たとえ親や子でもな。そうせねば、生きていけんのだから!」
「タナトス様、ここは人界、魔界の常識は通用しませぬぞ」
「くそ、不愉快だ、俺は帰るぞ!」
たしなめるプロケルには眼もくれず、タナトスはいきなり姿を消した。
「……ふう。済まないね、無作法な男で。だから魔物は野蛮だと、思われてしまうのだろうね……」
「それより、ホントなの? タナトスがお師匠様を殺そうとしたって」
「……済まない、その話はしたくないのだ……。
いつか話す機会もあるかもしれないが……今は、勘弁してくれないか……」
サマエルは言葉を濁した。
「あ、ご、ごめんなさい」
眼を伏せる彼の様子から、それが本当にあったことだと、少女達は直感した。