2.野の花(3)
「今帰ったよ。どこだね、ジル……?」
それから、三日後、夕焼けの中戻ってきたサマエルは、屋敷に入るなり、弟子の姿を探した。
厨房にはいない。部屋にも。
彼は、動悸が激しくなるのを感じ、思わず胸に手を当てた。
(やはり。……いや、これでよかったのだ。
彼女は王妃になる……私の許にいるより、幸せになれるだろう。
三年前に戻るだけ。私には、孤独が似つかわしいのだ……)
苦い失望を噛み締めながら、サマエルは中庭に出た。
夕闇迫る空には、不気味な紅色をした巨大な月がすでに浮かび、地上に不吉な光を投げかけている。
(今夜は満月か。格別に大きいな、ああ……駄目だ、気をたしかに持たないと。
月は、私を呼ぶ、私の中の紅い龍を。目覚めさせてはいけない、世界が滅んでしまう。
だが、この喪失感……どうやって)
サマエルが頭を抱え、ふらつきながら、庭の中央、小さな噴水のところまで来たときだった。
「今頃戻ったか、ろくでなしめ」
いきなり声をかけられて、彼は息が止まりそうになった。
「タ──タナトス!? どうして、お前がこんなところに……!」
「静かにしろ、ジルが起きてしまう」
そこにいたのは、タナトスだった。
ベンチに腰掛けた兄は、栗毛の少女に、膝枕をしてやっていたのだ。
「て、てっきり、ジルを連れて、魔界に帰ったのだとばかり……」
常になく動揺している彼を見たタナトスは、皮肉な笑みを唇に刻んでみせた。
「ふん、貴様、俺を信じていたのではなかったのか?」
それを聞いたサマエルの眼が、暗く
「これは一種、賭けのようなものだった……。九割方、大丈夫だとは思っていたが」
「ちっ、そんなことだろうと思った」
タナトスは顔をしかめた。
「彼女の村があった地方一帯が、病で全滅したことは以前話したな。
そのさ中から助け出し、屋敷に連れてきた直後は、本当に大変だったのだぞ。
少しでも私の姿が見えなくなると、不安がって泣き出して」
つぶやくようにサマエルは話し始め、タナトスは眼を見開いた。
「……むう、なぜだ?」
「考えてみるがいい。
あの疫病で、彼女は、両親や弟妹だけでなく、親類や友人、知人をすべて失った……幼い少女が慣れ親しんだ世界は、突如崩壊し、消えてしまったのだ。
病気が癒いえてからも、常に私と共にいることを望んだ。
眼を離したら、私まで、姿を消してしまうのではないかと怯おびえていた……。
夜中、突然目覚めて、泣き出すことも多かったよ。
『私は賢者、死にはしない』そう誓い、やっと寝かしつけることが出来たものだった。
ふもとの村に連れて行っても、当初は、誰とも口を利かなかった。
すぐに死んでしまうような者達とは、親しくなりたくなかったのだろうな」
サマエルは天を仰いで息をつき、そして、兄に視線を戻した。
「あれから三年……心の傷は、だいぶ癒えたと思ったのだが、彼女は今回のことに、どう反応するのか……。
私も迷った。それゆえ、このことは伏せておき、お前の行動で決めることにしたのだ」
「貴様!
もし、俺が……くそ、それで、彼女の心が傷つき、取り返しのつかないことになったりしたら、どうする気だったのだ!」
タナトスは声を荒らげ、彼に詰め寄ろうとする。
そんな兄を、サマエルは制した。
「しっ、ジルが眼を覚ましてしまう。寝室へ連れて行こう」
「……ふん、話はその後だな。
──ムーヴ!」
二人は、少女をそっとベッドに横たえると、さらにサマエルの部屋へ移動した。
「本当に姑息なヤツだな、貴様! さあ、さっきの俺の問いに答えろ!」
兄王子に詰問されて、サマエルはため息をついた。
「大体、お前が……妃がどうのと馬鹿げたことを言い出さなければ、私とジルの生活には、何の問題もなかったのだぞ。
私は、彼女が十八になったら、独り立ちさせようと思っていたのだから。
それを、いきなり現れたお前が……」
「すべて俺が悪いと言うのか、貴様!」
苛立たしげにおのれの胸をたたく兄を、サマエルはなだめようとした。
「まあ聞け。彼女のお気に入りの花畑を見たろう?
移植された途端、あの花達が枯れてしまうように、ジルは、人界を離れて生きてはゆけないのだよ」
「そんなことが分かるものか!」
タナトスは頑固に言い張る。
サマエルは、ゆっくりと首を横に振った。
「いいや、少なくとも現時点ではそうだ。
頼む、彼女が十八になるまで、この話は待ってもらえまいか。
それからもう一度、彼女の気持ちを聞けばよかろう。
今、手折ったらどういうことになるのかは、今回のことで、お前にも分かったはずだ。
もっと前に話したかったが、ある程度、彼女と親密にならなければ、理解してはもらえまいと思った。
それゆえ、あえて二人きりにしたのだ……」
「ふん、では俺が、聞く耳持たん、今すぐ連れて行くと言ったらどうする」
兄王子は腕組みをし、顎を突き出す。
「無論、力尽くでも彼女を守る!
お前にやりたくないからではない、今の状態で魔界にやれば、死んでしまうと分かっているからだ!」
刹那、サマエルの眼が輝きを増し、背中で緩やかに束ねていた白銀の髪が、ぱっとほどけて、生き物のようにうねうねと、うごめき始めた。
タナトスは、面倒くさそうに手を振った。
「分かった、分かった。俺とて、せっかく見つけた妃が死んでしまうのは困る。
あと、たった三年のことなのだろう、待ってやるぞ。だが、それが過ぎたら……」
サマエルは、肩をすくめた。
「その頃には、お前がどうも出来ないほど強力な魔法使いになっているさ、彼女は。
何しろ、この私が、そう仕込むのだからね」
「何を言う! 貴様の方こそ危ないではないか、この気違いめ!
おのれの感情の制御も、ろくに出来んくせに!
そうだ、俺は、これから毎日、ここに来て貴様を見張ってやる!」
兄王子は、弟に指を突きつけた。
サマエルは、にっこりした。
「ご随意に、兄上。ありがたいくらいですよ。
私自身ですら、自分を信じられずに困っていたのですからね」
「だから、いきなり口調を変えるな!」
タナトスは吼ほえた。
こうして、第一王子は、魔界そっちのけで、弟の屋敷に入り浸ることになってしまったのだった。