~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

2.野の花(2)

こんな菓子など、噛まずに即、飲み下してやる、そう思っていたタナトスだったのだが……。
「んん……? これは……美味いぞ、うむ。なかなかいける」
「ホント? よかった!」
「あまり甘くないのだな。ほろ苦い、大人の味……と言ったところか。
もう少し、見た目を何とかすれば、汎魔殿はんまでんでデザートに出してもおかしくはない」
「ほ、ほめすぎよ、タナトス……」
ジルは、ぽっと頬を染めた。

(やはり欲しい。 小うるさいサマエルもいないことだし、今なら……)
魔族の王子が、少女をさらおうと身構えた、まさにそのときだった。
「ね、タナトス、これから、ピクニックに行かない? お花畑でお昼食べるの」
当のジルが、にこやかに言ったのだ。
「花畑だとぉ……?」
きょ をつかれた彼が、無遠慮に眉をしかめると、お下げの少女はしゅんとなった。

「……やっぱり、男の人は、お花になんか興味ないかな……。
奥の方に、すごくキレイなお花畑があるの。それをタナトスにも見せたいなって、ずっと思ってて。
今日、とってもいいお天気だから、張り切ってお弁当、たくさん作ったんだけど……」
「ふむ、まあ、別にいいか。 キミの作った弁当も楽しみだしな」

彼が、内心の動揺を隠すように口にした社交辞令を、額面通りに 受け取った少女の幼い顔が、ぱあっと明るくなる。
「ホントに? じゃあ、このケーキも、おやつに持ってくわ!」
魔法で空中に浮かせた、大きなバスケットを三つも従え、さっそく二人は出発した。

日差しは暖かく、空には雲一つない。  
ジルは足取りも軽く、道端の花に眼をやったり、小鳥や蝶とたわむれたりしながら進んで行く。
そよ風が、少女の栗毛や白いワンピースのすそを優しくなびかせ、そんな様子を眺めるのも悪くないと思えたのも初めのうちだけで、すぐにタナトスは、歩くことに飽き始めた。
「ジル、まだ着かないのか? 大体、なぜ、魔法でさっさと目的の場所に移動しないのだ」

「なに言ってるの、それじゃ意味がないわ」
あきれ顔でジルは答えた。
「目的地に着くまでの間も、ピクニックなのよ。
それに、楽しいでしょう? こんないい天気の日に、色んな物を見ながら歩くのって」
問われた魔族の王子は、首をかしげた。
「そういうもの……なのか?」

「え……ひょっとして、タナトス、ピクニック、したことないの?」
少女は驚いたように、彼を振り返る。
「ああ。物はあふれるほど与えられたが、こんな経験は初めてだ。
母は生きている間、汎魔殿から出たことはなかったし、母の死後、親父は政務にかまけて、俺に見向きもしなくなったのでな……」

彼の声が、微妙にかげったのを聞きつけて、ジルは言った。
「そう、タナトスやお師匠様も、お母さんがいないのね。
それじゃあ、これからいっぱい行けばいいじゃない。
今度は、お師匠様も一緒にね。人が多い方が楽しいもの」
「いや、ジル、それは……」
「頑張って、もう少しよ。ほら、あの大きな木が目印なの!」
言うなり、栗色のお下げをなびかせて少女は走り出し、タナトスは急いで後を追う。
「待ってくれ!」

直後、急に開けた空間に出て、彼は息を呑んだ。
「タナトス、ほら、見て!」
「おう、これは……!」
目の前には草原が広がり、その中心に、堂々と根を張り風に枝をざわざわと鳴らす、一本の巨大な樹がそびえ立っている。
蝶が舞い、小鳥のさえずりが聞こえるそこは、花畑などという生やさしい表現では気が引けるほど、見渡す限りの空間すべてに色とりどりの花々が咲き誇っていた。

「ねっ、ステキでしょう!」
「むう、これはたしかにすごい。一見の価値はあるな!」
さすがのタナトスも、掛け値なしに感嘆の声を上げていた。
すると、不意に少女は真顔になった。
「あたしね、この景色は好きだけど、ここにあるから好きなんだと思う。
いくらそっくりに作っても、このお山になかったら、好きにはなれないかも……」

「なぜだ? まったく同じに作ればいいことだろう。
以前言ったように、魔法を使えば簡単に、いくらでも……」
「まったく同じなんて無理よ」
彼の言葉を、ジルは途中でさえぎった。
「似せて作れば作るほど、似ていれば似ているほど、元の、このお花畑が恋しくなっちゃうんだわ、きっと……」

タナトスは、額に手を当てた。
話の腰を折られるといつもは激怒する彼だったが、今は、怒るというより困惑していた。
「済まん……キミの言っていることが、よく分からんのだが」
「えーっと、だから……あれ? 何だか、あたしも、よく分かんなくなっちゃった」
ジルは、照れたような笑みを浮かべた。
「ね、それより、お花摘んでもいい? お庭でもやっと咲くようになったけど、ここの方がもっといい香りだから、タナトスのお花と一緒に、お屋敷に飾ろうと思うの。 きっと、お師匠様も喜ぶわ」
「え、あ、ああ……」
面食らったまま、彼はうなずく。

さっそく少女は、せっせと花を摘み始めた。
「不思議よね、おんなじお花なのに、お庭に植え替えると枯れちゃったり、ニオイまでしなくなっちゃうなんて。
お師匠様はね、お花にも心があるからだって。
摘んじゃうと可哀想かなって聞いたら、枯れるまでちゃんと世話をして、美しさを見てあげれば大丈夫だって言ってたわ」
「そう……だな」
上の空でタナトスは同意し、ジルを眩まぶしげに見つめた。

(なぜだろう……この娘といると、心が和む。サマエルの話を聞いても、腹も立たん。
ぜひとも自分のものにしたい。
だが、手折った瞬間、この花の匂いも美しさも、ついえてしまうような気がしてならん……。
な、何だ、俺はどうしたというのだ……?)

魔族の王子は、おのれの心に湧き上がって来る感情に戸惑い、ひまわりのように笑いながら花を摘む栗毛の少女を、いつまでも眼で追っていた。