~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

2.野の花(1)

その後、数か月は、無事に過ぎていった。
だが、ある時、サマエルは、どうしてもジルを置いて外出しなければならなくなった。
理由を告げることさえためらわれるのに、連れて行くことなど、出来るわけもない。
考え抜いたあげく、彼は、あのタナトスを屋敷に招待し、留守を守ってもらうことにした。

魔界にいる兄に、念話で事の次第を告げる。
“ふん、俺を招待するだと……? 何を企んでいる、貴様”
それに答えるタナトスの心の声は、不信感にあふれていた。
“企みなど、何もありませんよ。ただ、私が留守の間、ジルをお守り頂けないかと。
彼女はまだ子供、独りで何日も留守番をするのは淋しいようなので。
お願い出来ないでしょうか、兄上”

“貴様。その間に何があっても知らんぞ。帰ってみたら、もぬけの殻と言うこともありうるな”
“……私は、兄上を信じておりますから”
“兄などと呼ぶな、うっとうしい! だが、そこまで言うなら来てやる、ありがたく思え!”
尊大な返答をする兄に、サマエルは、深々と頭を下げる映像を送った。
“はい、よろしくお願い致します”
一方、心細そうなジルには、タナトスは留守を守ってくれるお客様なのだから、心を込めてもてなすように、とだけ話し、後ろ髪を引かれつつ、彼は屋敷を後にした。

二日後、地下室に据えられた魔法陣から歩み出たタナトスの手には、両手に余るほどの豪華な花束があった。
それを大事そうに抱えたまま、最愛の少女を探す。
彼女の部屋に行く途中で、二人は会った。
「いらっしゃい、タナトス。でも、どうしたの? すごいお花ね」

「あ、ああ、招待ありがとう、ジル……」
ジルはいつもの明るい笑顔で彼を迎え、タナトスは柄にもなく少し照れながら、花束を差し出した。
「これはキミにだ。宝石より、花の方がいいと言っていたから……」
「わあ、こんなにたくさん? ありがとう、キレイね。それに、とってもいいニオイ……!」
「サマエルは……」
「お師匠様は、さっき出かけたところよ」

「……キミは、あいつが、どこへ行ったか知っているのか」
念のため、タナトスは尋ねた。
無論、彼は弟の不在の理由を知っており、そんなことをこの少女に聞かせてはいないだろうと思ってはいたが。
すると、案の定、うっとりと花の匂いを嗅いでいた少女は顔を曇らせ、小さく首を振った。
「ううん。お師匠様、何か悲しそうな顔してたから、かなかったわ。
あ、このお部屋でちょっと待っててね。今、お茶とケーキ、持って来るから」

応接間に通されたタナトスは、ソファの中央に陣取り、辺りを見回した。
(ここへは来たことがなかったか、そう言えば。
いつも直接、サマエルの部屋に移動魔法で来ていたからな。
ふん……庶民的、とでも言っておいてやるか)
そう思いながらも、とても居心地がいいことに彼は気づいた。

何度も来ている、見慣れた弟の屋敷である。
かなり大きな建物ではあるが、紅龍城……魔界にある弟の城と比べても十分の一にも満たないため、初めて見たときには、みすぼらしくさえ思えた。
それが今、何と新鮮に眼に映ることか。

(どうしてだ……? 取り立てて贅沢な調度品など、置いていないと言うのに……)
十人ほどが座れば、いっぱいになってしまうだろう白木のテーブル、それを囲む革製のソファ、右手には大きな窓がある。
壁と家具、カーテンは落ち着いた色づかいで統一され、掛けられた絵も、飾り棚に置かれた小物も、趣味のいいものだった。
棚の上の小さな白い花瓶に活けられているのは、ジルが摘んで来た野の花だろうか。

心が和むのは、これらの品に住む者の精神が表れているからだ、……見る眼がある者ならば、そのように言ったことだろう。
残念ながらタナトスは、そんなことには、まったく思い至らなかった。
「お待ちどうさま、タナトス」
ただ、少し不思議に思っているうち、ジルが盆を手に戻って来た。

「はい、どうぞ。あ……あのね、これ、あたしが焼いたの」
はにかみながら、少女は菓子皿と、温か味のある乳白色のティーカップをテーブルに並べた。
「ほう、キミが。……美味そうだな」
一応、社交辞令で言ったものの、タナトスは、手を付ける気にはなれなかった。
出されたケーキは、形がいびつで焦げ臭い上、それを隠そうとしてか、山のようにクリームが乗せられており、到底、食用に耐えられそうには思えなかったのだ。

「……ご免なさい。美味しそうじゃないものね。朝から、一生懸命作ったんだけど……。
タナトスは、いつも高級なものばっかり食べてるから、ダメよね、こんなの……」
しょんぼりうなだれる少女を見ては、わがままで傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な魔族の王子も、さすがに本当のことは口に出せなかった。

「い、いや、俺は……その、ええと……。
そ、そうだ、俺はクリームが駄目なのだ。他の物ならよかったのだがな」
すると、ジルは眼を輝かせた。
「あ、そうだったの? やっぱりおかみさんの言ったとおりだわ!
よかった、チョコレートケーキもあるの!」
「えっ……」

(な、何だ、これは……!?)
目の前に、でんと置かれた、さらにいびつで真っ黒い物体に、魔界の王子は絶句した。
(ちいいっ、これもサマエルの差し金だな! 今頃、俺をあざ笑っているに違いない!)
タナトスは、心の中で思い切り舌打ちした。
しかし、少女の表情は、真剣そのものだった。

「お師匠様は、おもてなししなさいって言ったんだけど、あたし、よく分かんなくって。
ふもとの村の人に聞いたら、男の人は、あんまり甘いもの好きじゃないよって。
でも、お客様が来たら、まず、お茶とお菓子でしょ?
だから、少し遠くの町まで行って、チョコレート買ってきたの。これはちょっと自信あるのよ。
死んだ母さんが、誕生日に必ず作ってくれて、いつも手伝ってたから。
切るときにちょっと、失敗しちゃったけど……」

(わざわざ俺のためにか……)
そう聞いては、食べないわけにも行かない。
覚悟を決めたタナトスは、黒いかたまりをフォークに突き刺すと、眼をつぶり、えいやっとばかりに口に放り込んだ。