~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

1.賢者の弟子(4)

夢魔であるサマエルにとっては、夢を通じ、少女の心を操ることなど造作もなかったが、出来るなら、精神に手を加えることは避けたかった。
その上、巣立ちさせるのも、やはりまだ無理があった。
上級の呪文は、ほとんど手付かず状態、また、実戦経験に乏しい……等の、魔法に関することだけでは、ない。

弟子を独立させられない理由、それは、兄の存在だった。
仕返しと称して、その後もたびたび魔界を抜け出してきていたタナトスは、ジルの潜在能力を見抜いてしまったのだ。

あるとき、タナトスはこう言った。
「魔界の王妃ともなれば、気の荒い魔族共を牛耳(ぎゅうじ)らねばならんが、あの娘……魔力も申し分ない上に、気が強い。気に入ったぞ、わが妃にふさわしい」
「な、何だって!? 世迷ごとはよせ、タナトス! 
掟を忘れたのか、ジルは人族だぞ、神族が……天界がどう出るか!」
彼にしては珍しく、サマエルは驚きを(あらわ)にした。

「ふん、天界のたわけ者どもなど、どうにでもなる。
だが、貴様、手を付けておらんなどと、ほざいていたわりには、熱心なことだな。やはり……」
「ば、馬鹿なことを。私が欲するのは、成熟した女性だ。お前もそうだろう」
「人族は成長が早い。あと数年もすれば、あの娘も立派な大人だ。
魔界に連れて行った後、仕込めばいいのだ」

「あんな過酷な世界に連れて行こうと言うのか!
ホームシックか、ひどい風土病に(かか)るのが落ちだぞ!」
汎魔殿(はんまでん)(=魔界の宮殿)の結界の中にいれば安全だ。
その上で、欲しがるものすべてを与え、ありとあらゆる贅沢(ぜいたく)をさせてやればいい。
──どうだ、大喜びで付いて来るに決まっているであろうが!」
自信たっぷりに、タナトスは言う。

サマエルは、ほっと息をつき、首を横に振った。
「愚かな。ジルは、そんなものに踊らされる娘ではない」
「ふん。では、聞いてみようではないか。ここへ呼べ、サマエル」
「……仕方がない。しかし断られたら、(いさぎよ)く諦めるのだぞ」
「断るわけがなかろう、魔界の王妃だぞ」
「相変わらずだな、自分の望みがすべて叶うと思っているのは、お前の方だろう。
まあいい、その高慢な鼻っ柱が折られるところを、見物させてもらうとしようよ、タナトス」

“ジル! ちょっと私の部屋へ来てくれないか”
“はーい、お師匠様!”
サマエルの心の声に答え、元気に少女はやってきた。
「何かご用ですか……あら? タナトス、また来てたの?」

「また来てたの、はないだろう、ジル。今日はな、いい話を持ってきたのだ。
お前、いや、キミは、魔界の王妃になる気はないか? 何でも好きなことが出来るぞ」
「魔界の、王妃……? どういう意味? 
……何で、あたしが、王妃にならなくちゃいけないの?」
不思議そうに問い返されて、タナトスは言葉に詰まった。
「くっ、どういう意味も何も……。
ええい、つまりだ、ジル。俺の妃に、俺と結婚して、妻になってくれ!」

「ええっ、結婚!? い、いきなり、なに言い出すの、タナトス!
冗談なんでしょ、ね、お師匠様……」
困惑の眼差しで自分を見上げる愛弟子に、サマエルは、優しく微笑みかけた。
「いやいや、タナトスは、本気なのだそうだよ。
どう思うね? ジル。思ったままを言っていいから」

「魔族の王妃だぞ、いいに決まっているだろう、なあ、ジル。
汎魔殿は広大で美しく、眺めもいい。きっと気に入るぞ。
もちろん、働く必要などなく、おまけに、どんな贅沢もし放題だ。
女官達にかしずかれ、素晴らしいドレスや輝く宝石で身を飾り、魔界中……いや、人界からでも取り寄せた珍味を、毎日、飽きるほど食べられるのだぞ。
他にも、お抱えの楽師や芸人が、色々なショーを見せたり聞かせたり……何かペットを飼うのもよかろうな。
そうだ、この山が気に入っていると言うなら、これとそっくりの景色を中庭に……いや、この山を丸ごと持って行ってもいい、それほど広大なのだ、汎魔殿の敷地は。
城に飽きたら、魔界を見て回ろう。
魔界人は、王妃になったキミを歓迎し、行く先々で大宴会が催され、その席で、キミが力を見せれば、いよいよ宴は盛り上がるだろう。それから……」

魔族の王子が得々として話し続けるのを、少女は初め、栗色の眼を見張り、ただあっけにとられて聞いているだけだった。
それから、少しずつ事態が飲み込めてくると、ようやく思考が働き出し、ジルは、タナトスの言葉の洪水に口を挟んだ。
「ねえ──ねえ、ちょっと待ってよ、タナトス。あたしの話も聞いてちょうだい」
「ああ、すまん。つい夢中になって。気に入っただろう、妃になってくれるな」
畳み掛けるタナトスに向かって、ジルは、負けず劣らず勢いよく、お下げ髪の頭を横に振った。

「ううん、あたし、いやよ。王妃になんかなりたくないわ。
贅沢なものなんて、全然欲しくないもの。
だって、ドレスなんて、よそゆきのが一つあればいいし、宝石より、きれいなお花があたしは好き。
ペットより、お庭に来る自由な鳥達に話しかけてる方がいいわ。
冬に来た渡り鳥が、春、北に帰るのを見送るのも楽しみなの。
食べ物だって……あたし、自分でお料理するの好きだし、ずっと何もしないでいると太っちゃいそう。
それに、たまに見るから、ショーって楽しいんじゃないの?」

「キミの言う通りだよ」
徐々に深くなるサマエルの微笑を受けて、ジルの当惑も、だいぶ収まってきた。
「だいたいねー、タナトス。あたし、あなたのこと、よく知らないし。会ったのだって、今日で何度目?
……それで、いきなり、結婚してくれなんて言われても、あたしじゃなくたって困ると思うけど。
タナトスだって、そうじゃない? よく知らない人に、突然結婚申し込まれたら?」

初めて殴られたときとそっくりな面持ちで、少女の顔を見つめていた魔族の王子は、 そこでようやく我に返った。
「そ……そうだな、うむ、たしかに俺が悪かった。では、もう少し時間をかけて……」
「待ってよ。あたし、あなたと仲良くなっても、魔界になんか行く気ないわ」
「キミは、魔界のことを知らないから……」
「そうじゃないの! 魔界じゃなくても、あたし、お師匠様と離れてどこにも行く気がないの!
ごめんなさい、さよなら!」
「あ、ま、待て!」

呪文で止める暇もなかった。
少女は、勢いよくドアを開け、栗毛のお下げをなびかせて、一目散に駆けて行ってしまったのだ。
フードの奥でサマエルは、笑い出したいのを懸命にこらえていた。
「貴様、心の中で大笑いしているのだろう、いい気味だと!」
タナトスは、そんな弟を、忌々(いまいま)しげに睨みつけた。

「……何のことでしょう、兄上。
ですが、約束は守って頂きますよ、彼女に振られたら、諦めると」
サマエルの声は、何事もなかったように穏やかだった。
「いきなり敬語を使うな、気色悪い!」
プライドを著しく傷つけられた、魔界の第一王子は荒々しく()えた。
「ふん、所詮(しょせん)、小娘ごときには、魔族の王子たる俺の魅力など分からんのだ!
あんな娘、こっちから願い下げだ、帰るぞ!」

しかし、言葉とは裏腹に、タナトスは、それからもちょくちょく人界へとやって来た。
もちろん、ジルに会うために。
それで、サマエルは、弟子を独り立ちさせることを諦めなければならなかったのだ。
(ジルに、急いでタナトスに対抗出来得るだけの力をつけさせなければ。
あいつのことだ、力尽くで魔界へ拉致(らち)しかねない……)
彼は、兄のことを信用する気にはなれなかった。