1.賢者の弟子(3)
サマエルは、深く息をついた。
何度か瞬きをし、瞳に燃え上がっている闇の炎を消してから、弟子の少女を振り返る。
「済まなかったね、ジル。驚いたろう……ケガはないか?」
「ううん、平気よ。あ、床が濡れちゃったわね」
ジルは、魔法で呼び出したモップに、床をふかせた。
「でも、誰だったの? 今の人……」
サマエルは、眼を伏せた。
「……ああ、あいつか。あいつ……タナトスは、あれでも、私の……兄、なのだよ」
「ええっ、お兄さん!? どうしよ、あたし、ぶっちゃったわ!」
驚きのあまり、頬を両手で挟み、ジルは叫んだ。
「こうなったらもう、正直に話そう。聞いておくれ、ジル。
私は魔族……魔界王家の第二王子なのだ。
遠い昔、過ちを犯して魔界にいられなくなり、追放同然に 人界へ来たのだよ」
そこまで言うと、彼はフードを払いのけ、額を飾る宝石に指をあてがった。
「キミは、私の真の姿を見たと言ったね。ではもう、隠している意味はないわけだな。
──ディスイリュージョン!」
宝石は呪文に呼応し、深緑から
それと共に、サマエルの容貌も変化を遂げた。
少女の眼に、まず映ったのは、若々しく高貴な顔立ちと、普段は フードの奥に、慎重に隠してある紅い瞳。
そして、右生え際に一筋、紫を帯びて見える部分がある、背の中ほどでゆるやかに結ばれた白銀の髪……そこまでならば、まだ、さほど人間と変わりはない。
しかし、耳は長く尖っていたし、背中にはコウモリに酷似した暗黒の翼が広がり、額にもユニコーンめいた白い角が生え、その姿は、タナトスに似て、一目で人外の者と分かるのだった。
「うん。あの時、見たわ、お師匠様。あたしを助けてくれた時とそっくり」
覗き込んで来る弟子の瞳を、サマエルは、正視することができなかった。
「……私は悪魔。しかも、女性の敵として嫌われる……夢魔だ。
魔界王家の血を引く者は、すべて夢魔なのだよ。
だが、誓って、キミには何もしていないし、これからもするつもりはなかった。
キミが十八になったら、修行の旅に出し、独り立ちさせようと思っていたのだ……。
予定が、少し早くなってしまったな。お別れだね、ジル。
キミといられたこの三年は、とても楽しかったよ、ありがとう……」
「え……?」
少女は、ぽかんと口を開けた。
師匠の言葉の意味が心に浸透していくに従い、大きな眼に涙が盛り上がっていく。
「ど、どうして? まだ習ってない魔法が、たくさんあるのに!
追い出さないで、お願い、お師匠様! あたし、ここ以外に行くところがないの!」
必死に、彼女は頼み込む。
サマエルはうつむいた。
「……キミは、私が恐ろしくはないのか? この姿もそうだが、さっきの私の眼を見たろう。
あらゆる生物の夢や希望、生きていく意志さえ奪ったあげく、最後には死に至らしめる、おぞましい“魔眼”を……」
ジルは懸命にかぶりを振った。
「怖くなんかないわ。あたしだって、怒ってるときは、 すごい顔になってるに違いないもの。
でも……お師匠様がいつもフードかぶってたのは、そのせいなの?」
「そうだよ」
「じゃあ、お師匠様は他の人を殺したくないのね? そうよね?
あたしのことも助けてくれたんだもん!」
すがるように言う彼女に、サマエルは暗い眼差しを投げた。
「いや、私とて、人族を殺したことはある。 一万年以上も前の、魔界と人界との戦の折に……。
魔族も人族も、たくさん死んだ……あんな思いはもう、したくない」
「……そんなに昔? お師匠様っていくつ?
あ、そんな大昔じゃ、人間なんて生まれてないんじゃない」
「人族は、その戦で絶滅しかかり、ほんの一握りの生き残りが、キミ達の先祖となったのだ。
私は、二万年以上生きて、ただ、それを見て来た。
手を貸すことは、許されていなかったからね……」
ジルは眼を丸くした。
「二万年も……生きてるの?」
「そう。人界へ来たのは千年ほど前だ。
キミ達が少しずつ過去を思い出して進歩し……我々に追いつくのを、私はじっと見て来た。
昔の人族は、もっと魔力が強かったけれど、他のところでは、一万年前と同レベルに戻っているよ。
さあ、もう行きなさい、ジル。
よく買い物に行く、ふもとの村なら慣れているだろう、そこで暮らすといい。
大丈夫、キミなら、今まで覚えた魔法だけで十分やっていけるから……」
諭すような師匠の言葉に、このときだけは、ジルは従う気になれなかった。
「──嫌! あたし行かないわ!」
「どうして……」
「あたしの村にも、魔族はいたわ。優しいヒト達で、友達だったのよ、病気が流行るまでは。
なのに、何で、お師匠様と一緒にいちゃいけないの? あたしもう、ここ以外にお家がないのに!」
「聞き分けておくれ、ジル。もう一度言うよ、私は……」
「あたしのこと、嫌いになっちゃったの? お兄さんをぶったりしたから?
ごめんなさい、何度でも謝るから、ここにいさせて。
──ね、お師匠様、お願い!」
少女は、懸命に頭を下げた。
「兄のことなら気にすることはない。代わりに殴ってもらえて、うれしいくらいだよ。
私が魔界を去ったのは、父や兄との折り合いの悪さも、理由の一つだったのだから」
「じゃあ、なぜ?」
顔を上げ、ジルは尋ねる。
「…………」
汚れのない、澄んだ瞳を受け止めかねて、魔族の王子は視線を落とした。
「キミは、どんどん大人になる……そして、私は夢魔だ……。
いつ、キミを襲うか分からないよ……」
「お師匠様が、そんなことするわけないわ。 ──あたし、信じてるから!」
ジルがそう言い切っても、サマエルは、うなだれたまま、首を左右に振るだけだった。
「キミが信じてくれても、私は自分を信じられない。
私は、生まれて来てはいけない子供だった……。
本来なら“
「マガツカゲ……って何のこと? お師匠様」
「不吉な影のことさ。私に近づく者は、すべて、災厄に巻き込まれてしまうのだ。
……済まなかったね、ジル。こんな私と三年も一緒に住まわせて……。
キミはもう自由だ、どこへ行っても構わないのだよ」
「……でも……」
一瞬、途方に暮れたような顔をした少女は、すぐに尋ねた。
「どこへ行ってもいいの?」
「ああ、もちろんだとも」
「じゃあ、あたし、ここにいる。どこへ行ってもいいなら、ここにいてもいいのよね?」
「ジル……」
今度は、魔族の王子が、困り果てた顔をする番だった。
「あたし、決めた。 魔法を全部習い終わるまで、お師匠様と一緒にいる!
それにね、あたし、生まれて来てはいけない子供なんて、いないと思うわ!」
ジルは元気よく言い切った。
「ありがとう、ジル。 しかし、それとこれとは……」
さらに思い留まらせようとしたサマエルは、少女の瞳から、ついに涙がこぼれ落ち始めるのを見ると、断りの言葉を飲み込んでしまった。
「……分かったよ、キミがそれでいいのなら……」