~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

1.賢者の弟子(2)

「お屋敷の前にいたのに、いつ来たのか、全然気づかなかったけど……。
あ、魔法で来たの? じゃあ、お師匠様のお友達なのね?」

しかし、サマエルの心配は杞憂(きゆう)に終わった。
少女は、まったく物怖じする様子もなかったのだ。

「ほほう、度胸のある娘だ。俺のこの姿を見ても、怖気づかんとは。
俺の名はタナトス。魔界の王子だ」
男が自慢げに言うと、ジルは、大きな栗色の眼をまん丸く見開いた。

「──えっ」
「どうだ、驚いたか」
「うん。あたし、王子様に会うのなんて、初めてだから」
「俺は魔族なのだぞ。魔物の王子だ……見ろ、この姿を。恐ろしいだろう」
これ見よがしに、タナトスは、背中の漆黒の翼を広げて見せた。

ジルは、可愛らしく小首をかしげ、無邪気に言った。
「何で怖がらなきゃいけないの? あたし、いい魔物をいっぱい知ってるもの。
それに、王子様が悪いことするはずないわ。
あ、あたしはジル。サマエル様のお弟子よ、よろしくね。
病気で死に掛けてたあたしを、お師匠様が助けてくれたの。
でも、あなたって……何だか、ちょっぴり、お師匠様に似てるみたいね……」
「ふん、それはそうだろう。 認めたくはないが、こいつは……」

「やめろ、タナトス!」
思わず、サマエルは、常にない激しさでそれをさえぎっていた。
タナトスは唇を歪め、魔族にふさわしい冷酷な視線を彼に向けた。

「なるほどな。貴様、この娘に正体を隠していたのか。
道理で、魔族のあかしたる角も翼も見当たらんわけだ。
ふん……落ちぶれたものだな、まったく情けない。
魔界の王子ともあろうものが、本性を隠し、人間ごときのマネまでして、コソコソ暮らしているとは!
たしかに、貴様のような追放者には似合いだが、これ以上、魔界王家の名を汚すな。
この、ドブを這いずり回るネズミも同然の、薄汚い……」

そのとき。
──ぱん、と乾いた音が、どこまでも続いていきそうな、タナトスの罵倒ばとうを止めさせた。
「な、何をする、貴様!」
魔族の王子は、信じられない思いで、自分を平手打ちした人間の少女を見つめた。
「もう、やめて! それ以上、お師匠様の悪口を言うと、許さないわよ!」

「ジル……まさか、知っていたのか? 私の正体を……」
サマエルの問いに、弟子の少女はこっくりとうなずいた。
「うん……。初めて会ったとき、お師匠様、魔族の姿のままだったでしょう?
あの時は、熱に浮かされて見た幻だと思ってたの。
でも、あたし、お師匠様が魔族だって、全然構わないわ。
だって、命の恩人だってことには、代わりがないもの」

「ジル……」
複雑な眼差しを、サマエルが弟子に注いだ、その瞬間。
魔界の男が、人間の少女に躍りかかった。
「貴様──! 許さないのはこちらの方だ、小娘の分際で、次期魔界王のこの俺を殴るとは!」
「きゃあっ!」
腕をわしづかみにされて悲鳴を上げる少女の手から、雪のウサギが放り出され、床に飛び散る。

っ! き、貴様……!」
直後、声を上げたのはタナトスだった。
サマエルが、兄の腕をつかみ、逆にねじり上げたのだ。
「女性に手荒なマネをするとはね。魔界の王族の風上にも置けないヤツだな」
「くそっ、放せ、サマエル! 薄汚い追放者の分際で、俺に触れるな!」
「やれやれ……相変わらずだ、自分の思う通りにならないと、すぐ暴力に訴えるのだからな、子供と同じだ」
「子供だと!? こ、この俺を誰だと思って──!」

「まあ落ち着け、わめくのを止めて考えてみるのだな、タナトス。
次期の魔界王ともあろう者が、人間の女性に乱暴を働いた……となったら、陛下はもちろん、天界がどう出てくるかを、じっくりと……ね」
静かな声で、(さと)すようにサマエルは言った。

「うぬっ……くそぉ!」
「さあ、今すぐ魔界に帰れ。陛下に謝罪し、二度とここへは来ないことだ。
天界との協定を、次期魔界王みずから破るつもりか?」
「くっ、今度はこんな子供をたらし込んだか、それとも力ずくか、このロリコンめが!」
「彼女は弟子だ、手など出してはいない。それに、私は、無理強いしたことはないぞ、お前と違って」
とんでもない言いがかりをつけられたサマエルの声は、半ばあきれ気味だった。

「何を、この女たらしめ! そうやって、今まで幾人、女を食い物にして来たのだ!」
もがきながら叫んだタナトスは、ぎくりと身を硬くした。
それまで穏やかだったサマエルの紅い瞳に、突如、暗い闇の炎がともったのだ。
翌日の上天気を予感させていた夕焼け空が、いきなり黒雲に覆われてしまったかのように、周囲の空気さえ、どこかひやりと冷たく感じられ始めた。

「……タナトス。この私と、本気でやり合うつもりか……?
私は今、静かに暮らしている。どこにも迷惑はかけていない、何一つね。
お前は、それほど、カオスの闇を呼び込み、破滅を招きたいのか……?」
魔界の第二王子は、その眼差しにふさわしい、冷ややかな口調で言ってのけた。

「や、やめろ、よせ!」
分かった、今は退いてやる。だが、覚えておけ、借りは必ず返してやるからな!
──ムーヴ!」
解放された第一王子は捨て台詞を吐き、漆黒のマントで身体を包むと、ふっと消えた。