1.賢者の弟子(1)
「おはよう、お師匠様、ご飯ですよ!
あれ、どうかしたの?」
栗色の巻き毛を二つのお下げに結った少女に、無邪気に顔を覗き込まれ、 サマエルは微笑んだ。
「……ああ、おはよう、ジル。ちょっと、昔を思い出していてね」
「昔って?」
「いや、大したことではないよ、さあ、朝食にしよう」
「は~い」
少女は元気よく返事をし、キッチンから運んで来た、二人分の食事をテーブルに並べた。
あれから三年が経ち、ジルは十五歳になっていた。
サマエルの弟子として魔法を習い、家事もする。
彼は、あの時、少女を助けるかどうか、ひどく迷った。
ある理由により、彼は、人界に関与することが禁じられていたからだ。
しかし、少女の容態は一刻を争い、悩んでいるいとまはなかった。
母親の遺体を急ぎ埋葬すると、密かにジルを自分の屋敷に運び、彼は 熱心に看病をした。
賢者と呼ばれる彼だけあって、目の前で死に瀕ひんしている小さな命を見捨てられなかったのだ。
元気になったら、どこか平和な村にでも、預けるつもりだった。
だが、無意識に“呼び声”を送ったことでも分かるように、ジルには魔法使いの才能があり、しかも、制御不能に陥ることさえあった。
彼は、やむなく、弟子として少女を屋敷に置くことにした。
並の魔法使いでは、強力な彼女の力を導くことは難しいと考えたのだ。
そして、今日も、いつものように魔法の授業を始めたのだったが……。
「……お師匠様? ねえってば、どうしたの?」
その声にサマエルは我に返った。
彼はいつの間にか、魔法書そっちのけで、窓の外に眼をやったまま、 物思いにふけってしまっていたのだった。
「あっ、す、済まない、ジル。ぼんやりしてしまって……」
「何を見て……わあ、雪、初雪だわ……!」
ジルは窓に駆け寄ると、歓声を上げた。
低く垂れ込めた空から 天使の羽のような白いかけらが、ちらほらと舞い落ちてき始めている。
「なぁんだ、早く教えてくれればいいのに!
ね、お師匠様、お勉強はちょっとお休みにして。 見て来たいの、いい?」
「そうだね、休憩にしよう。 寒いから、ちゃんと上着を着るんだよ」
「は~い、行ってきますぅ」
ジルは勢いよく走り出て行った。
暖かい地方に住んでいたジルは、雪を見るたび、幼い子供のようにはしゃぐのだった。
(闇を照らす、光の女神……か)
元気いっぱいの少女の後ろ姿を見送ったサマエルはそうつぶやき、再び自分だけの思いに浸り込んで行った。
しかし、彼の物思いも、そう長くは続かなかった。
辺りの気配が変わったのを感じて、サマエルはさっと身構えた。
魔法実験に使う地下室から漂って来ていた、ただならぬ“気”。
それが、部屋の中央で急激に高まったかと思うと、不意に人影が出現したのだ。
「久しぶりだな、サマエル。退屈しのぎに来てやったぞ、哀れな追放者めが!」
「タナトス、お前か!」
その瞬間、サマエルは弾かれたように立ち上がっていた。
彼の目の前にいたのは、一目で魔族とわかる男だった。
コウモリめいた闇の翼と長くとがった耳を持ち、両眼は真っ赤で、頭頂部には、
だが、悪魔的な外見はそこまでで、男は豪華な衣装をまとい、どことなくサマエルに似て、貴族的な風貌ふうぼうをしていた。
ただし、髪だけは、新雪のように白く輝くジルの師匠とは対照的に、墨を流したような漆黒だった。
ジルがいなくて幸いだったと思いながら、サマエルは、ため息交じりに男に話しかけた。
「……何とまあ、退屈を持て余し、無断で魔界を抜け出すとは……。陛下がカンカンだろうに」
「ふん、あんなくそ親父など、勝手に怒らせておけばよいのだ!
いつも、くどくど文句ばかり言いおって! うっとうしいこと、この上ないわ!」
「何を言うか、お前は、次期の魔界王なのだぞ。
まったく……子供でもあるまいし、もう少し自覚を持ったらどうだ?」
サマエルは、嘆かわしげに言った。
「うるさい、貴様の
ちっ、どいつもこいつも、俺に説教ばかりだ!」
「うるさいのはお前の方だ。 単なる暇つぶしなら、わざわざ私の所へ来る必要もないだろう。
散々、私の顔など見たくないといっていたくせに。
……ああ、そうか。
それで愚痴を聞いてもらいに来たか。……魔族の王子ともあろう者が、哀れだな」
「な、何っ、俺が愚痴を言いに来ただと! 誰に向かってそんな口を利いているのだ、貴様!」
タナトスが顔を真っ赤にして、怒鳴り返したときだった。
ドアが大きく開き、息を切らした少女が飛び込んで来たのだ。
「お師匠様! ほら見て、雪ウサギをつくったの!
あ、あなた、誰……?」
白い小さなかたまりを手にした少女は、まじまじと男を見ている。
(しまった……!)
サマエルは唇を噛んだ。
現在、人界には魔族も多く住んでいるので、普通、それほど恐れられはしない。
だが、今ここにいるタナトスは、伝説の悪魔そのものといった姿をしている。
そんな魔族に対しては、本能的に恐怖を感じる人間が多いと言うことを、彼は嫌と言うほど知っていたのだ。