~紅龍の夢~

巻の一 PANDORA'S BOX ─パンドラの箱─

プロローグ─死の荒野─

(……死だ。死が満ちている……。泣いているのは、風か、それとも……)

乾ききった灰色の大地を、闇色のローブをまとった旅人が独り、進んでゆく。
あたりには、死の臭いが充満していた……いや、それどころか、今まで通った街や村は、そのすべてが、死の静寂に包まれていたのだ。

つい先ほど、苦悶のまま息を引き取ったばかりの者や、吐き気を催すような臭いを発し、男女の別も分からなくなっている者、長い間捨て置かれ、半ば白骨化している者までが、歩を進めるたびに現れる。

この、流行病が猖獗しょうけつをきわめ、動くものの影とてない地方を、あてどなく、一体どれほど彷徨さまよっていたものか。
さすが疲れを知らぬこの旅人も、ついに立ち止まり、フードの奥で考え込んだ。

(……ひどい有様だ……。
ファイディー国の人口の、およそ十分の一ほどが、すでにやられてしまった……か。
どこかで誰かが呼んでいる気がして、ついつい、こんな遠くまで来てしまったのだが。
いい加減、戻った方がいいだろう。いつまでも、こんな旅を続けていても仕方がない)

疫病にかかる恐れはないと分かっていたものの、悲惨な状況ばかり見続けた旅人の心は、ひどく打ち沈んでいた。

戻ろうときびすを返した、その時、旅人は、旅の終わりを知った。
いったんは通り過ぎた小さな家の中から、かすかな声が聞こえて来たのだ。
聞き違えようもなかった。
それは、長く続いた夢のない眠りから彼を目覚めさせ、この旅に駆り出す原因となった、あの呼び声に違いなかった。

「……誰かいるのか?」
胸の高鳴りを押さえつけ、彼は慎重に、きしむ扉を開けた。

カーテンが閉められたままの室内は暗く、長いこと掃除もされていないと見えて、床は砂まみれだった。
フードをはねのけ、眼を凝らすと、部屋の最奥、粗末なベッドに、やせ衰えた何者かが横たわっていた。

「お水……お水ちょうだい、お母さん……」
ひび割れた小さい唇が開き、声が漏れた。
ベッドの足元には、おそらくその母親なのだろう、長い栗毛のやせ細った女がうずくまっていて、触れるまでもなく、すでに事切れていた。

「お母さん……お母さぁん……」
熱に浮かされ、子供はうわ言で母を呼ぶ。

(この子が、私を呼んでいたのか? ……あれほど遠くから? なんと強い力だろう……)
そう思いながら、旅人は水筒を取り出し、渇いた口に少しずつ水を流し込んだ。
子供は、うっすらと眼を開け、彼を見た。

「お母さ……? じゃ、ない……。
あなたは……ああ、死神、さんね……あたしを、迎えに来たの……」

旅人は、はっとしてフードを引き下ろした。

「私は死神ではないが……すまない、キミを助けてはあげられない……。
キミの名前は?」
最期を看取るのも何かの縁、せめてこの母娘だけでも、きちんと葬ってやろうと心に決め、旅人は、墓に刻むつもりで名を尋ねた。
「あたし……ジル。あなた……は」

「……私……か。私は、サマエルと言う」
一緒のためらいの後、黒衣の男はそう答えた。

少女は、やつれた顔の中ではひどく人目を引く、大きな栗色の眼を見開いた。
「サマ……エル? あの……賢者様なの?」

男は肩をすくめた。
「そんな風に名乗ったことはないが、ヒトは私をそう呼ぶね」
「賢者様……お母さんは……?」
「……天国に召されたよ。他に何か、して欲しいことはないかい」
ジルは首を振った。

「……みんな、死んじゃった……あたし、だけ、生き残って……だからもう、いいの。
あたしも……もうすぐ、みんなの、とこに……」
「ジル、そんなことを言ってはいけない! お母さんの分まで生きなくては!」
叫んでしまってから、サマエルは、自分の立場に思い当たり、 無力さに歯噛みした。

(何を言っているのだ、私は。この子を助けることなど、出来はしないのに……)

「さよ、なら……賢者、様……天国で……みんなに、自慢、するね……。
千年、以上も、生きてる……伝説、の、賢者様、に……最後の、最期で……会えたって……」
「ジル!」

少女は、にっと微笑み、ぐったりとなった。