~紅龍の夢~

番外編 魔界王家の王子達(1)

「兄様! どこにいるの、兄様ってば!
──あっ!」
足首まで埋まるほど、ふかふかのじゅうたんに足を取られて転んだのは、十か、いってせいぜい十二、三歳くらいに見える少年だった。
深みのある黒いベルベットとシルクをふんだんに使った豪華な衣装は、その高貴な容貌を、よく引き立てていた。

だが、この少年が人間ではないことは、一目瞭然だった。
両眼は真っ赤で耳の先はとがり、後ろでちょこんと結わえられた銀髪は、染めてもいないのに一部分、紫を帯びて見える。
その上、背中にはコウモリに似た闇色の翼、額には純白の短い角までが生えているのだから。

「うるさいぞ、サマエル! 騒ぐんなら、ついて来るな!」
苛立たしげな声が、大人がすっぽり入れるほど巨大な花瓶の後ろから聞こえ、もう一人、少し年かさの少年が現れた。
その少年──黒髪を肩で切りそろえ、背中には同色の翼、頭頂部に二本、褐色の角を生やし、整った顔立ちをした子供──もまた、当然ながら魔界人だった。

色違いの服を着、背丈もほぼ同じとあって、遠目には、この二人はそっくりに見える。
しかし、近寄ってみれば、違いは一目で分かるのだった。
転んだ少年に手を貸そうともせず、勝気そうな紅い眼で睨んでいるのは、兄のタナトス。
整った眉をしかめ、我がままそうな唇をぎゅっと引き結んでいる。

他方、何とか自力で立ち上がったのは、夢見るような優しい眼差しと、ちょっと気弱そうな唇をした、こちらは弟のサマエル。
彼らは、汎魔殿はんまでんと呼ばれる、この壮大な宮殿の主、白賢王ベルゼブルの王子達だった。

「だって、タナトス……」
「シーッ! 静かにしろって言ってるだろ!
お前が大声出してついて来たら、すぐに見つかっちゃうじゃないか!」
タナトスが指に口を当てたとき、遠くからの声がかすかに、二人の耳に届いた。

「タナトス様ー! サマエル様ぁ!」
「お二人とも、どちらにいらっしゃるのですか──!」
「来た! 見つかるぞ、早く隠れろ! 何してる、ぐず、のろま!」
タナトスは素早く花瓶の陰に隠れ、弟を隣に引きずり込んだ。

「でも……作文の授業は、週一回しかないのに……。
『王の後継者たる者、文書の一つ書けなくてどうする』…って、父様も、おっしゃってたでしょ……」
サマエルが声を潜めて言うと、怒鳴りたいのを我慢して、タナトスも小声で答えた。
「いちいちうるさいなぁ──お前は。
そんなもの、書記官が適当に書くからいいんだ。父上だって、自分じゃ書いてないだろ。
大体な、いつも通りに、お前が俺の分も書いてれば、バレずに済んだんだぞっ!」

「だって……」
「──しっ!」
言いかける弟の口を、兄王子は押さえた。
パタパタと、女のものらしい軽い足音が近づいてくる。
そしてそれは、彼らの目の前で、ぴたりと停止した。
思わず二人は身を縮める。
だが、足音の主達は、息を殺している少年達の存在にはまったく気づかず、おしゃべりを始めた。

「……ああ、ここら辺にもいないわね。
まったくもう、どこに行ったのかしら、あの二人! この忙しいときに!」
「ね、わたし、急に引っ張り出されてよく分からないんだけど、どうしてお二人を探すことになったの?
タナトス殿下が、また何か……?」
「あら、あなた、聞いていなかったの?
タナトス殿下が、作文の宿題を、今まで全部サマエル殿下に押し付けていたのですって。
……それが今日、とうとう見つかってしまって。逃げ出してしまわれたのですってよ」

「えっ、今度は作文? ……たしか、この前も、何かの宿題を弟君に……」
「ええ。
あまり度重なるものだから、教育係のアスモデウス導師様も、ついに陛下にご報告することにしたのよ、
お二人を連れて。
そうしたら、タナトス殿下だけじゃなくて、サマエル殿下まで逃げ出してしまわれたと言うわけ。
……やれやれよね。
大体、日頃から陛下が、タナトス殿下を甘やかし放題だからこうなるのよ。
第一王子様だから、こっちだって仕方なく我慢しているけれど、どれだけ女官や使い魔達が、迷惑をこうむっていることか!」

「ホントよねぇ。サマエル殿下だって、ご迷惑でしょうに。
はっきり断っておしまいになればいいのにって、いつも思うわ」
「あらぁ、それはムリよ。お気が弱すぎるんですもの。
兄君様、アゴでつかわれてらっしゃる感じじゃない。
片方は超ワガママ、もう一方は、とことん気弱。
……どちらが時期の魔界王様になられるのか知らないけれど、どうなることやらって感じだわ」

「……そうねぇ……。
でも、ワガママで短気なお方より、お優しいお方になって頂いた方が、わたしたちも、お仕えしやすいのではなくて?」
「えー、それじゃ、天界と戦になったときどうするの? すぐ敗けそうだわ。
ちょっとしたことで、すぐピーピー泣くような王子様なんて、人の上に立つ器じゃないわよ」

聞くうちに、タナトスの拳は強く握り締められて頬に朱が差していき、対照的に弟王子は青ざめ、徐々にうつむいていった。
しかし、そんなこととは知らない女官達のおしゃべりは、容赦なく続いた。

「それに、あなた忘れたの? サマエル殿下は、魔法をお使いになれないのよ。
魔力のない魔界の王なんて、冗談キツイわよ。
……そうそう、アスモデウス導師様が、サマエル殿下にサジを投げたとき、陛下が何て仰ったか分かる?」
「え……分からないわ、教えて」
「『あれは取り替え子に違いない』っておっしゃったそうよ」
「取り替え子!? まさか!? 
この汎魔殿の強力な結界を破ることのできる妖精なんか、いやしないわよ!」

「──しっ! 大声出さないで。
人から聞いただけよ。そんなわけないことくらい、わたしだって分かってるわよ。
よほど陛下はガッカリなさったのね、って思っただけ」
「そんならいいわ。けど、取り替え子って言うのなら、タナトス様の方かもしれなくてよ?
お小さいころからご聡明で、名君中の名君とうたわれていらっしゃる陛下のご子息とは、とても思えないやんちゃぶりですもの」
「あ~ら、ホント、そうかもね、おほほほ……!」

(こ、こいつら──いい加減に……!)
ついにタナトスの我慢が頂点に達し、飛び出そうとするその寸前、間一髪、別の声が近づいてきた。
「あなた達、そんなところで何をしているの!」
「あ、女官長様」
「……あ、その、こちらにはいないわねって、話していたところですのよ、ね?」
「え、ええ」
「そう、じゃあ、あちらを捜して」
「はーい」

女官達の足音は遠ざかっていく。
それが十分に遠ざかったのを確かめて、二人は花瓶の影から忍び出た。

「──ちいぃっ! 腐れ女どもめ、言いたい放題言いやがって、今にただじゃおかないからな!」
タナトスは、憤懣ふんまんやるかたない顔で、じゅうたんを蹴った。
「くそっ、こうなったら怒られたって構うもんか、今すぐ追いかけて黒焦げにしてやろうぜ、サマエル!
あ、そうか、お前魔法が使えないんだっけ! 
何でだろうな、ひょっとして、ホントに”取り替え子”だったりして!」
兄の口から軽く出された言葉は、ただでさえ打ちのめされていたサマエルの胸に、ずしんと響いた。

“取り替え子”とは、文字通り、妖精の子供と取り替えられてしまった子供のことを指す。
魔族の中でも妖精族と呼ばれる者達が、復讐や恩に報いるため、あるいは単なる悪戯いらずらで、子供を入れ替えてしまう例が、ままあるのだ。
また、親に似ていない子なども、からかいを込めてそう呼ばれたりする。
しかし、サマエルの場合、父にも兄にもよく似ていたし、それはありえなかった。
だからこそ、彼も、『自分も必ず魔法が使えるようになる』と、信じることができていたのだったが……。
(父様……ぼくを“取り替え子”だと、ずっと思ってらしたの?
だから……今まで、笑いかけても下さらなかったの……)
必死にこらえても、サマエルの眼にはじんわりと、涙が溜まってきてしまうのだった。

「あー、また泣いてら! 泣き虫だなぁ、サマエルは! ホントに俺の弟かぁ?
やっぱり取り替えっ子かもな!
──やーいやーい、取り替えっ子、泣き虫の妖精──!」

弟の気持ちも考えず、タナトスは、いつものようにからかう。
そんなときは、大抵サマエルは泣き出し、その場から逃げて行ってしまうのだったが、今日は常と異なっていた。
「タナトスのバカ──!!」
泣きながらも、兄に突っかかって行ったのだ。

タナトスは、不意を突かれて尻餅をついた。
「痛って──! やったなこいつ!」
お返しに頭を殴っても弟はひるまず、二人はそのまま倒れ込み、取っ組み合った。
「ぼくは取り替えっ子なんかじゃないっ!!」
眼にいっぱい涙をためながらもサマエルが叫び、タナトスも負けずに言い返す。
「分かるもんか! 魔法も使えないチビのくせに!!」
「背なんか、ちょっとしか違わないじゃないか、今に追い越してやるから!」
「何ぃ、ナマイキだぞ、サマエルのくせに!」

そうやって、しばらく彼らはつかみ合いをしていたが、ついにサマエルの拳が兄の顔面にクリーンヒットし、たらりと鼻血が流れた。
「痛っ!」
弟の予想外の強さ。
兄王子はかっとなり、弟王子の腹に強烈な蹴りをお見舞いした。
「うっ!」

そして、魔力のない弟には決して使うなと言われていたにも関わらず、うずくまるサマエル目がけて、呪文を唱えてしまった!
「くそっ、お前なんか死んじゃえ!
──サンベニートゥ!」