~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

8.光中の闇(3)

碧龍シュネを連れたダイアデムが、サマエルの部屋に現れると、数分早く到着していたタナトスは、彼を睨みつけた。
「遅いぞ! 貴様、何をもたもたしておったのだ!」
「ご、ご免なさい、あたしが……」
言いかけるシュネをかばい、ダイアデムは前に出た。
「いや、オレが悪いんだ、説明に手間取っちまってさ。ンなコトより、早く行こうぜ」
「落ち着け、タナトス。(わらわ)も共に参るゆえ」
ニュクスがなだめ、ダイアデムと一緒にその姿が輝き出す。

一瞬後、黄金に輝く巨大なライオン、次いで夜色をした豹……双方共に、人界の獣の倍はある……が現れ、皆を驚かせた。
シンハさえもが顔をこわばらせて、黒豹を凝視する。

「な、何だ、この豹は!? まさか、貴様、テネブレか!? どうやって封印を解いた!」
中でも、タナトスが最も驚いていた。
彼は、凶悪な化身であるテネブレを封じたことで安心し、これで、もう“黯黒の眸”を伴侶にする上での障害は、すべて取り除かれたと思い込んでいたのだ。

プロケル公爵の息子で、今は公爵の位を継いでいるカッツが、この獣を見たなら、恐怖で震え上がったかも知れない。
この姿は、かつて“黯黒(あんこく)(ひとみ)”が、まだサマエルの弟子だったジルを異界に拉致(らち)した際に、カッツを脅し、従わせるために取った形態だった。

唖然(あぜん)として、黄金のライオンと漆黒の豹を見比べているうちに、魔界王は以前、“焔の眸”の化身が主張したことを思い出した。
ダイアデムは、神族との戦いを目前にした今だけでも、テネブレを封じておくべきだと言い張ったのだった。

なぜかと問い返す彼に、少年は答えた。
モトの最初の生まれ変わりであったベリアル王は、テネブレの企みにより、殺害されてしまったのだと。

ベリアルはシンハを寵愛(ちょうあい)し、王妃を(めと)ってからも、公然と寝所に連れ込んだりした。
当然、王妃はそれを快く思わなかった。
テネブレは、その嫉妬心に付け込み、彼女を操って、“焔の眸”を宝物庫に戻させた。
一旦は眠りについたシンハが、異変に気づき、駆けつけたときはすでに遅く、家臣の一人と結託した王妃に、ベリアルは毒殺されてしまっていたのだった。

そんなことまであったかと驚く彼に、ダイアデムは重ねて言った。
平和になってからも、寝首をかかれたくなかったら、テネブレは眠らせておいた方がいいのではないかと。
そこで、魔界の王は、とりあえずテネブレを封じることにしたのだった。
だが、それが、こうも早々と封印を解き、出て来られてしまうとは……。

正式な披露(ひろう)こそまだだったものの、どうにか家臣達には、“黯黒の眸”との関係を黙認させるところまで漕ぎ着けたのだ。
それなのに、テネブレにまたも封印を破られたとなれば、家臣達の反対を抑えてまで、“黯黒の眸”を王妃に据えることは難しくなり、またも日陰の身に戻さなければならないだろう。 
命の瀬戸際まで追い詰められた挙句、ようやく最愛の者を手に入れることが出来たと思ったのに、すべてが水泡と化してしまうかも知れない。
予想外の出来事に、タナトスは動揺していた。

そんな彼の心を知ってか知らずか、紅い口をカッと開け、黒い獣は答えた。
『否。テネブレの封印は未だ解けてはおらぬ。
他人(あだびと)(わかつ)るテネブレとは異なり、我は、干戈(かんか)(つかさど)る者。
此度(こたび)()の者が封じられたゆえ、独立した個人性を有することと相なったのだ』

(独立した個人性……戦いを司る者? シンハと同じということか?
生意気にも、テネブレごときと自分を一緒にするな、と言いたげだが。
それにしても、“黯黒の眸”の中に、まだ、こんな化身がいたとは……。
──くそ、面倒な! 火閃銀龍と一戦交えねばならんという、危急存亡(ききゅうそんぼう)(とき)に!)

魔界王は歯ぎしりし、黒豹に指を突きつけ、シンハを睨みつけた。
「貴様は知っていたのか、こいつのことを!
何ゆえ、俺に黙っていた!」
魔界のライオンは、否定の身振りをした。
『我も、その化身は初見だ。名も知らぬ』

「何ぃ、俺に嘘をつく気か、貴様!」
タナトスは、思わず声を荒げた。
だが、もし知っていたなら、シンハは正直に言うだろうし、何より、ベリアル王の前例がある。
陰謀を好むテネブレのこと、化身の一つや二つ、兄弟に隠れて所有するなど、造作(ぞうさ)もないことだろう。

そう思い直した魔界王は、闇色の獣に向き直った。
「……まあいい、詳しくは後で聞いてやる。貴様、名は何という?」
豹は黒い頭を横に振った。
『テネブレより分かたれしばかりの身ゆえ、我は未だ、おのれ自身の名を持つに至ってはおらぬ。
我はただ、敵対する者と戦うのみ』
「何、名無しだと……?」
タナトスはさらに驚いて、今度こそじっくりと獣を眺めた。

ジルをさらった当時、この豹の眼は、テネブレ同様、洞窟の闇も同然に、ひたすら暗く不気味な雰囲気を(かも)し出していた。
しかし、現在は、かつての禍々(まがまが)しさは完全に消えてしまっており、眼自体も、漆黒の虹彩(こうさい)の中央部に、金色(こんじき)に輝く丸い瞳孔(どうこう)を持つように変化している。

以前の姿を知らないタナトスは、今ここにいる獣に対して、嫌悪の情は感じなかった。
それどころか、この黒豹の精悍(せいかん)さに惹きつけられ、好ましい感情が湧いて来るのを覚えるほどだった。

「ふん、たしかに、ヤツとは別の人格のようだな。ならば、俺が名をつけてやる。
そうだな……“カーラ”というのはどうだ。
黒、暗黒、死を意味する名だ。我が妻に、ふさわしい名だろう」
『カーラか。良き名を頂き、恐悦至極(きょうえつしごく)に存ずる、我が君主サタナエルよ』
黒い獣は、うやうやしく頭を下げた。

魔界の君主は、豹の眼を覗き込んだ。
「それはいいとして、もう、俺に隠し事をするなよ!」
叱責(しっせき)口調で言い捨ててから、彼は、相手が生まれ立ての化身であることに思い至り、少し抑えた口調で言い直した。
「……いや、これでもう、俺の知らん化身はおらんだろうな、“黯黒の眸”」

黒豹は、真っ直ぐに彼を見据え、(よど)みなく答えた。
『おらぬ。おぬしが望まぬ限りは』
「ならばよし」
タナトスは、心からほっとし、親愛の情を込めて豹の頭を軽くたたいた。
獣はそれに応え、ごろごろと喉を鳴らしながら、彼の手に頭をこすりつける。
その仕草は、まるっきり猫と同じと言えた。

ニュクスでの手酷い失敗を教訓としたお陰か、今回、この化身との信頼関係の確立には、珍しくすんなりと成功したようだった。
(また一からやり直し、などはご免だからな……まあ、でかい猫を一匹飼うことにしたと思えばいいか。
テネブレよりは、飼い慣らしやすそうだ)
タナトスはつぶやいた。

彼らのやり取りを気遣わしげに見ていたシンハは、安堵したようにたてがみを揺すり、口を開いた。
閑話休題(かんわきゅうだい)、相手は()にし()う火閃銀龍、されど、ルキフェルは、驪龍頷下(りりょうがんか)(たま)
皆、努々(ゆめゆめ)気を抜くでないぞ!』
次の瞬間、二頭と三人は、サマエルの精神内部に着いていた。

「うわ、真っ暗だ……あ」
思わずリオンは声を上げ、慌てて口を押さえる。
「ホント、何も見えないわ。……シンハ、怖いよ」
シュネは小声で言って身震いし、ライオンにしがみついた。
「ふん、たしかに暗いな、この俺でさえ、先がまったく見通せん。
シンハがいなかったら、身動きが取れんところだな」
森閑(しんかん)とした闇の中、常日頃豪胆(ごうたん)なタナトスでさえ、切迫するような気味悪さに、鼻を鳴らさずにはおれない。

身の毛もよだつこの濃密な闇の中で、晴れやかな顔をしているのは、新しく名前をつけてもらったことで機嫌がよく、また“カオスの闇”に慣れ親み、こよなく愛す、“黯黒の眸”の化身だけだった。
尸林(しりん)(ごと)く、欣快(きんかい)なる闇よ』
カーラは、楽しげに喉を鳴らしていた。

『怯えるでない、ベリル。誓って、(なんじ)は我らが守護致すゆえ』
こちらも“黯黒の眸”同様、闇を恐れない“焔の眸”の化身は、シュネの頬をぺろりとなめた。
ライオンのたてがみは、闇中に赤々と燃え上がり、彼女の眼にも反射して、明るく輝かせていた。
それでも、光が届くのは、シンハがいる周辺だけで、後は深い闇が果てしなく続くのだった。

「そんなことより、サマエルはどこだ?」
「そうだ、サマエル様はどこ?」
タナトスとシュネが、同時に尋ねた。
『今少し進んだ先だ。なれど、我らに気づけば火閃銀龍が力を(ふる)い、皆、打ち揃って捕縛されてしまうやも知れぬ。
“黯黒の眸”よ、汝が、隠形(おんぎょう)の術を用いて、我らの風姿を(くら)ますがよい』
シンハは答え、兄弟を促す。

『心得た、“焔の眸”よ。皆、(ちこ)う寄れ』
黒の中の金の瞳を、爛々(らんらん)と光らせてターラが言う。
三人と一頭はその言葉に従い、身を寄せ合った。
『──シュマシャーナ!
これでよし、後は黙して進め』
黒豹は闇に溶け込み、輝くライオンに続く。
残りの者は、その後ろについた。

姿を見えなくする技は、“黯黒の眸”が、最も得意とするところである。
ニュクスが地下迷宮に隠れたときも、この術を使っていたため、タナトスは捜し出すことが出来なかったのだ。

“……む、この気配は!”
かなり歩いたと思える頃、シンハが鼻をうごめかし、いきなり駆け出した。
皆が追いついてみると、黄金のライオンは、倒れている人影を揺さぶっていた。
“モト、しっかり致せ”

“ふん、こいつが初代紅龍、モトか”
ぐったりと横たわる青年の顔を見たタナトスが、つぶやく。
“へえ、父さんそっくりかも……髪の色は違うけど”
リオンが言った。

シンハの揺らぐ炎に浮かび上がった青年の体は、傷だらけだった。
火閃銀龍の攻撃は容赦なく、モトの魂に傷をつけていたのだ。
“まあ、ひどい傷だわ。あたしが治してあげる。
──フィックス!”
シュネが治癒魔法を使うと、ようやくモトは意識を取り戻し、薄目を開けた。
“あ、ああ、シンハ……”

“モトよ、これが(けん)龍王タナトス、現魔界王サタナエルだ。
そして、朱龍リオン、碧龍シュネ……真の名はベリル。
最後に、我が兄弟、“黯黒の眸”の化身だ”
シンハは前足で指し示し、彼らを引き合わせた。

“なるほど……だが、龍達よ……お前達はまだ、力に目覚めていない、のだな……”
皆を見回して弱々しく言い、モトは再び眼を閉じる。
“力に目覚める? どういう意味だ?”
タナトスが問いかけると、モトは突如、カッと眼を見開いた。
“そうか、ようやく分かったぞ、我らが何ゆえ、未だ眠ることができずにいるのかが……!
──出ておいで、我が子達よ!”
虚空に向かって手を差し伸べ、モトは呼びかけた。

 

せいかん【精悍】

顔つきや態度に勇ましく鋭い気性が現れていること。また、そのさま。

わかつる【機る/誘る】

あやつり動かす。また、うまく人を誘いあざむく。

かんか【干戈】

干(たて)と戈(ほこ)の意 1武器。2たたかい。いくさ。

ききゅうそんぼう【危急存亡】の秋(とき)

《諸葛亮(しょかつりょう=孔明)「前出師表」から》
「時」でも間違いではないが、本来は「秋」と書いて「とき」と読む。
危機が迫って、生き残るか滅びるかという重大な瀬戸際(せとぎわ)。

しんかん【深閑/森閑】

物音一つせず、静まりかえっているさま。

おんぎょう【隠形】

呪術(じゅじゅつ)を用い、自分の姿を隠して見えなくすること。

名(な)にし負(お)う

名高い。評判である。「名に負う」に同じ。《「し」は強意の副助詞》

驪龍(りりょう)頷下(がんか)の珠(たま)

黒色の竜のあごの下にある珠。危険を冒さなければ得られないもののたとえ。

尸林(しりん=シュマシャーナ)

中世インドの葬儀場。しばしば処刑場を兼ねており、斬首や串刺しにされた罪人の死骸が晒(さら)されてもいた。
かつては色々な女神が祀(まつ)られ、尸林自体も女神の名前がつけられた。  

きんかい【欣快】

非常にうれしく、気持ちのよいこと。よろこび。

かんわきゅうだい【閑話休題】

むだな話はさておいて。それはさておき。さて。

カーラの眼は、普通の豹と逆で、虹彩が黒、中央の瞳孔が金です。
巻の二の3にチラッと出て来るこの黒豹の姿は、シンハと同じく戦闘用の形態ですが、“黯黒の眸”は誰かを操って戦わせる方が得意なので、その後は出番がありませんでした。一応、オスです。

『カーラ』に『マハー』をつけると『マハーカーラ』になります。
マハーカーラ(サンスクリット語:Mahaa-kaala、音写:摩訶迦羅など)。
ヒンドゥー教の神の一柱で、シヴァの別名の一つとされる。
マハーは「大いなる」、カーラは「黒、暗黒」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れる。シャマシャナという森林に住み、不老長寿の薬をもつ。
仏教にも取り込まれて大黒天と呼ばれ、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道の大国主神と習合している。
本来の姿と違い、日本の大黒天が柔和な表情なのはこのため。
  Wikipediaより

3つの性格を持つ。
破戒・戦闘=尸林(しりん)に住み隠形(おんぎょう)・飛行に通じて、血肉を喰らい、祀ればその加護により戦いに勝つという。
財福=ヴィシュヌや地天の化身として、インドの寺院にて祀られる。
冥府=焔摩(えんま=閻魔)天と同一視して塚に住むという。
  神話と神々~東アジア編~より