~超短編集~

常闇の意思ネームレス・マインド

月も星もない夜、小夜(さよ)鳴き鳥の声に呼び起こされ、名もなき者が覚醒する。
森の樹木がその出現に(おのの)き、葉や枝を揺するざわめきが、ことさらに強くなってゆく。
名もなき者は特定の姿を持たず、ゆえに顔も体もない。
ただ、ひときわ濃い闇が凝り固まって自我を持ち、(うごめ)いているのみ。

闇に支配された小夜鳴き鳥(ナイチンゲール)の森に、踏み入ってはいけない。
魂を吸い取られ、抜け殻にされてしまうから。
だがそれも、百年ごとに一夜限り。
黎明(れいめい)に伴い、名もなき者(ネームレス・マインド)は地の底へと滑り込み、再び長き眠りにつくのだ。
いつか形ある者として、日の光の中に出ていくことを夢見て。

月夜の幻影

月の光に照らされる、その人の横顔は白かった。
まぶたを固く閉じ、
代わりに唇はうっすらと開いて、
今にも何か話し出しそうに見える。

けれど彼女は、決して言葉を発したりはしない。
なぜなら彼女はもうすでに、
この世の人ではなかったから。

その顔がゆっくりと正面を向き、
固く閉じていた眼を開く。
差し招くように伸ばされた手が、
自分に触れると見えた刹那。
月が雲に隠れ、彼女の姿も煙のように消える。

私は、自分が涙を流しているのに気づいた。

月の海

幾度も寄せては返す、波。

砂浜に立ち尽くす、私の足にじゃれつくように、白く泡立ち去っていく。

そのたび水面に映る月が砕ける。

潮は満ちては引き、引いては満ち、それを永久に繰り返す。

湿り気を帯びた暖かい風が私の髪を乱し、吹き抜けてゆく。

木々のざわめき、夜行性の生き物達が密かにうごめく。

それらの濃密な気配を影のようにまとい、私は闇の中に溶け込む。

青白い月だけがそれを見ている。

砂漠幻想

持っていた食料も水も()うに底をつき、砂漠に迷い込んでからどれほど経ったものか、既に男には、分からなくなっていた。
眼は(かす)み、意識朦朧(もうろう)としつつも、もう一歩行けば、あと二歩行けば、水場(オアシス)が……都市(まち)が見えて来るのではないか……そんな(わず)かな望みに(すが)り、男は重い体を引きずり進み続ける。

だが、幾らも行かぬうちに足が滑り、倒れ込んでしまう。
体力は限界に達し、もはや起き上がることもできない。
遂に死を覚悟し、それでも生き延びようとあがく男の眼に、その時、信じられないものが飛び込んで来た。

天上には、生きとし生ける者を焼き尽くさんと燃え盛る火輪、地には一面に広がる砂、砂、砂。
その間を陽炎(かげろう)が揺らめき、つなぐ。
嫌というほど見慣れた景色の只中に、何者かが立っていたのだ。
少し距離があるため、瞳の色や表情の細やかなところまでは分からなかったが、その凄艶(せいえん)な紅い唇は、(かす)かに微笑んでいるかに見えた。

一瞬、助かったと思ったものの、こんなところに人がいるわけがない。
……とうとう幻覚まで見えるようになったか。男は(つぶや)いた。
しかし男の思惑には関わりなく、幻のように現れた女は突如、舞い始めたのだ。

流麗(りゅうれい)な薄紫色のドレスから覗くすんなりとした足が、軽く砂を蹴ると、金のサンダルが砂漠の(まばゆ)い日光を反射してきらりと光り、(ゆる)やかに体が空中へと押し出される。
華奢(きゃしゃ)な腕の動きは優雅で、白鳥の羽ばたきそのもの。
腕や足に()められた何本もの細い金の輪が触れ合う、ガラスベルのような澄んだ音が、熱い風に運ばれて砂漠中に響き渡ってゆく。
一連の動作につれて、背の中ほどまである紫がかった紅い髪が生き物めいた動きを見せ、ある時はか細い腕に、ある時は美しい顔に、またある時は(まぶ)しいほど白い胸元にふわりと(まと)わりついては離れる。

美女が無心に舞う空間、そこだけがぽっかりと、重力が消え失せているかのようだった。

初めこそ警戒していた男も、次第にその舞に引き込まれていき、しまいには飢えも渇きも暑さすら忘れ、ぽかんとだらしなく口を開けて、只管(ひたすら)天女と見(まご)う女の舞踏に見とれてしまっていた。
永遠に、この飛天の舞を見ていたい……男はそう(こいねが)う。

しかし、美しい(とき)は不意に終わりを告げた。
疲れも見せず踊っていた女は、始まり同様、唐突に動きを止めたかと思うと、その輪郭(りんかく)は次第に曖昧(あいまい)
なり、ついには(かすみ)のごとく薄らぎ、空中に溶け込んでいく。

女の姿が完全に消えた後には、眼を見開いた男の死体が一つ、転がっていた。

野良犬

雨は冷たく、傘はその冷たさを(さえぎ)ることができずに、雨は容赦なく、心にまで降りかかる。
荷物一つ持たず、けれど心にはひどく重いものを抱えて、僕は独り雑踏に紛れ、家路をたどる振りをする。

僕の前を、一匹の犬が小走りに横切っていく。
泥にまみれ、雫を垂らしたそいつに首輪はない。
……お前にも帰る家はないのか、犬……僕はつぶやく。

ドアを開ければそこには笑顔、いつかそんな日が来るかも知れない、淡い希望を持ちながら、行き先も
決めず雨の中、ひたすら僕は歩き続ける。

月の絵本

少年は幽囚(ゆうしゅう)の身だった。
(かび)臭く難解な本を無聊(ぶりょう)の友として、祖父の逆鱗(げきりん)に触れぬよう息を潜め、小さな天窓から覗く四角い空で時を知った。
食事は徐々に減らされて、埃塗(ほこりまみ)れの室内を(あさ)っても何もなく、飢えに突き動かされて書棚によじ登っても、自由な空には届かない。
バランスを崩し落下した少年が苦痛に顔を歪ませた時、一冊の本に手が触れた。
それは、月の表紙と天使の挿絵(さしえ)が美しい絵本だった。

少年は、あらん限りの想いを込めて母に似た天使を見詰めた。
唇は動いても、声は出ない。
彼は、語る言葉を持たぬ子供だった。
両親の死で声を失った彼を、祖父は外聞が悪いと(うと)み、書庫に閉じ込めたのだ。

少年は眼を閉じた。涙が頬を伝う。

その時、風もないのに絵本の(ページ)がぱらぱらとめくれ始めた。
同時に、(いつく)しむように降り注いでいた月光が弾け、銀粉のような光が部屋に飛び散る。
少年の背中に、幻の翼が生まれていた。
月は、彼の願いを知っていたのだ。
喜び羽ばたく少年の体は次第に透き通り、無数の光り輝く粒子となって、絵本の中へと吸い込まれていく。

翌日、絵本には微笑む天使が一人増え、漂っていた数枚の羽は、天窓から差し込む朝日が当たると、
夢の名残のように消え失せた。

夜の影

あれは何?
闇の中に浮かび上がる、(おぼろ)で、眼をいくら凝らしてもかすかな輪郭しか捉えられない、漠としたもの。
(うごめ)いているようでもあり、不動でいるようにも見える、名もなく、(しょう)もないもの。
その、いわく言い難いものに私は呼びかけようとするが、いつも名前は見つからない。
闇夜にざわめく木立のように、それは私に、あるときは(ささや)き、あるときは語りかけ、またあるときは(うた)を歌って聞かせる。
夜の詩を。闇の声で。
私はそれに見入り、耳を傾ける。
否、眼で見ているのではない。声?それも耳で捉えてはいない。
私の心臓の上を(かす)かになぞり、それは通り過ぎてゆく。
祈りにも似たそれを捕らえ、私は魂の(かて)とする。

ノアの洪水 <その一>

神に選ばれし者には、その身体に白き聖痕(スティグマ)が現れる。
刻印を受けし神の子は、日の出と共に神へ祈りを捧げ、それに応えて神は我らに慈雨(じう)を下さる。
ある日、私の体に(しるし)が現れた。
喜び勇んで私は神殿に赴き、(みそぎ)をしては、毎朝敬虔(けいけん)なる祈りを捧げた。

だが年月が過ぎるうち、地上は争いに満ち、しまいに幾ら祈っても雨は降らなくなった。
地は乾き、皆も渇いて私を責め、ついに私は神の怒りを買った罪で処刑されることとなった。
──ああ、神様。私の何がいけなかったのですか。教えて下さい、神様。
四肢を引き裂かれる激烈な痛み。目の前が暗くなり、私の意識は途切れた。

目覚めたとき、私は水に浮かんでいた。見回しても周囲に陸地はなく、空は抜けるように青い。
風もなく、何の音もしない。
罰を下されたのだろう、神が。堕落した人々に。
それでも。
人々のために、私は泣いた。
──神様。
答えはない。

どれくらい経ったのだろう、何かが太陽の光を(さえぎ)り、私は顔を上げた。
巨大な船が、目の前に(そび)え立っていた。
「鳩よ、陸地を探してきてくれ」
舳先(へさき)に立つ男の手から飛び立つ白い鳥、つられるように私の体もまた、空中へと投げ出される。
無くした(はず)の両腕は翼となって戻ってきていた。
──神様。
涙が水に滴ると、銀の魚が跳ねた。

ノアの洪水 <その二>

「ただ今!お母さん、お祖母ちゃん家に行ってる間、ちゃんと餌と水、やってくれた?」
「お帰り。あ、ご免、水、忘れてたわ」
「えーっ!?」
少年は叫び、慌てて飼育ケースを覗いた。
乾き切った土の上に、彼が一月前、白い印をつけた蟻が、バラバラになって死んでいた。

「……やば。皆死んじゃったのかな。夏は乾くの早いなぁ……毎日霧吹いてって言っといたのに」
少年は巣穴を掘り返してみた。たくさんの蟻が、驚いたように出て来る。
「……なんで、僕が印つけたヤツだけ死んでんだよ?ちくしょう!」
彼は無性に腹立たしくなり、いきなり飼育ケースに大量の水をぶちまけた。
蟻は全て溺れ死んだ。

メビウスの輪

「きゃーっ!」
少女はティーカップを取り落とした。
口をつけようとした薄茶色の液体の底には、根元から切り落とされた人間の指が一本、沈んでいたのだ。

夕立に遭い、この洋館に雨宿りを求めた彼女を館の主は歓迎し、応接間に通して暖かい紅茶を振舞ってくれた
……のだったが。
粉々に割れた破片の間から、尺取虫(しゃくとりむし)のように指が()い出て、自分目掛けて少しずつ、だが確実に近づいて
来るのを見た時、少女の中で何かが壊れた。

「きゃあああああ!」
再び彼女は悲鳴を上げ、部屋を走り出た。
応接間は玄関を入ってすぐだったはずなのに、行けども行けども出口は見つからず、窓の外には紫の雷光が走る。

息を切らし、どれほど走ったのだろう。
「あったわ!」
少女はついに玄関に辿(たど)り着いた。
手が震えて力が入らず、ドアノブをがちゃつかせても、なかなか開かない。

「助けて、誰か!」
どんどんドアを叩きながら、必死の形相で少女は叫ぶ。
「お願い、開いて!」
改めてノブを回し全体重をかけると、ぎいーっと嫌な音を立てて、ようやくドアは開いた。
しかし。

「──きゃっ!?」
扉の向こうには、青ざめた顔をした、館の主が立っていた。
その後ろには館の廊下が、延々と続いている。
「そ、外じゃない!?」

「……どちらへ行かれるんですか?まだ雨が降っていますよ……ほら、こんなに……」
差し出すその手から、指がボトボトと落ち始める。
やがてそれは顔へと波及し、眼が、耳が、鼻が次々に落ちてゆき……。
「きゃーっ!」
少女の絶叫を、雷鳴が()き消す。

雨の日、岬の洋館に足を踏み入れてはいけない。二度と出られなくなるのだから。

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